*[次の世代に]すでに始まっていること。
昨日SDGsの話をしたけれど、いろんな識者がSDGsについて話しているのを聞くと「何が自分の幸せなのか」ということを必ず問い質している。
「そんな当然のこと」が真正面から問われなくなっていたのが"昭和"という時代なのだ。
と今になって思う。
幸せ? そんなもの「お金とか地位とか物とかに決まってるじゃないか」というちょっとオソロしいステレオタイプな時代が、戦後長く続いたのだ。
時代が終わってみれば、過去の物差しは実に虚しい。
若者にしてみれば「全然イケてない」わけで、そのダサさは1960年代の"反戦ブーム"の時とあまり変わらない。
いつの時代も「価値観の移行」に当たっては世代間の摩擦が付きものなのだ。
自分は最近の二十代の若者が安易に就職しないのは「大人のお手本がないからだ」と思っていた。
つまり尊敬する「こうありたい大人」が家族にも周囲に見当たらないからだ、と思っていたが、むしろ「自分にとっての幸せ」を自分なりに考えているのが今の二十代の実態なのかもしれない。
平成生まれの人たちも、そろそろ30代になるが「親世代」を見ても幸せのお手本はなく、だからようやく「型通りの成功」ではなく「自分なりの生き方」を考え始めているのではないか。
SDGsにしても一つの例題で、ようやく「戦後のくびき」から離れて「自由に自分たちの未来を考える時代」が始まった、とも言えるだろう。
むしろこれまでの「成長神話」とか「資本主義優位」とかも疑って、世界をフラットに考えていくのがこれからの若い人たちなのだ。
年長者の役目は、せめてそうした若者の自由をいたずらに批判しないことではないだろうか。