藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

音編み

 *[音楽]目と耳と。


Goldberg Variations Complete (J.S. Bach BWV 988), with score, Kimiko Ishizaka piano


Glenn Gould plays Bach - The Goldberg Variations, BMV 998 (Zenph re-performance)

バッハの曲を練習していると一声、二声、三声と流れるように聞こえるものが、実は楽譜になるとこんな風に書かれていたのか、と驚くことばかり。

二本の手で三声を弾くのだから「一声分」をどちらかの手で紡ぎながら旋律になってゆくのだが、技術的にも難しいし、その旋律を頭の中で交互に追いながら「どれがアルトよ」と意識するのも大変。

まるで脳トレな感じがする。

さらに指使い。

ベートーヴェン は「指使いこそが最も重要」と言っていたらしいが、それにしてもいろんな運指があり(中には何の表記もない楽譜もあり)指使いを間違えたままでいたら一生演奏ができないような部分もある。

 

それにしてもyoutubeにここ数年でこれだけのコンテンツがアップされているのは驚くばかりで、これから何百年も溜まり続けていくと一体どれほどのものになるのやら。

さらにARやVRだので「過去の芸術家」まで登場してくるのはそう遠い未来のことではなさそうだ。

 

 

 

自己発電

*[ウェブ進化論]自分の力でできること。

毎日1万歩歩くとか、週何日筋トレをするとか。

現代人は実にムダなことをして健康維持を図っている。

自分も日々ノルマのように歩いているが、もう少し人様のお役に立てたらいいのにと真面目に思う。

毎日ひたすら歩くとか、ジムのマシンで走ったり重りを上げ下げしたりは気の毒な行為に思えなくもない。

 

かねてからそうした「人の一見ムダな動き」を発電に結び付けられないものかと思っている。

例えば足の裏に発電装置を着けて、歩いた分のエネルギーを電気に交換するとか。

日本で一億人の人が1日五千歩歩くだけで相当なジュール(1ジュールは102gのリンゴを1m持ち上げる単位)が溜まるはずだ。

多少のロスがあるにしても、スマホの充電くらいは十分に可能なのではないだろうか。

 

地球環境に貢献するとまでは行かなくとも、今の自分たちの「気の毒な運動」が少しでも何かの役に立てばいいのにと思う。

あ、買い物の代行とか荷物の運搬とか高齢者への声かけとか、そんなもののシェアは今すぐにでもできますね。

そんなアプリを開発してみようかなと。

生産しているか

*[次の世代に]自分の成果は。

昨日、7つの習慣よろしく「自分に適切なことで悩もう」と書いたけれど、「杞憂」も困るが「評論家」も困るというお話。

7つの中に「影響の輪と関心の輪」というのがある。

環境問題を考えるのはいいことだが、自分は天気を思い通りに変えることはできないし、コロナウィルスのワクチン開発に貢献することも難しいだろう。

 

世の中のことが「なぜそうなっているのか?」を知り考えることは大事だが、「そういうこと」ばかりに気を取られていると、まるで時事評論家のようになって、ただあーだこうだ言っている間に歳を取ってしまう。

 

ネットはそういう魔性を持っているので、意識して離れて「いま為すべきこと」を考える時間が必要だ。

平均寿命は伸びているが、ネットに喰われている時間は、それ以上に多いのではないだろうか。

 

ここ30年であっという間に「パソコンとネットなし」の仕事はなくなってしまった。

そんな中で本当に「自分のしていることは社会として成果が上がっているのかどうか」を考える。

情報をつかみ、ただ右から左に流しているだけのような錯覚を覚えるのは自分だけだろうか。

 物作りと違って今の仕事は目に見えにくい。

自分はなにを生んでいるのか、ということを意識する必要があるだろう。

 

 

 

夢見(2)

*[次の世代に]*[7つの習慣]自分らしいことに悩む。

大学の学生さんと教授の違いは「適切な問題設定の力」にあるという。

つまり自分の専攻する分野で、成果を目指す方向性と、その時の「自分にふさわしい取り組むべき課題」を見極める力が重要だということだ。

「方向と課題」といえば分かりやすそうなものだが、自分たちの日常に当てはめてみると途端にカオスになる。

「自分の人生の方向性と、今取り組むべき課題」と言われてスラスラと答えが出る人は少数なのではないだろうか。

 つまり「そういうこと」を考えるのが実は自分たちには"最も重要なテーマ"なのだと気づく。(これは7つの習慣の「重要事項を優先する」だ)

 

日々生活していれば「そういうこと」をゆっくり考える機会は少ない。

日常は忙しく過ぎてゆく。

ビジネスのことや、お金のことや、人間関係だって悩みも尽きない。

だから一人の時間を意識して作る、というのは必要なことだと思う。

自分たちは人と交わっていると、それだけで時間を過ごしてしまうものだから。

若いと可能性は無限にあるが、その分的を絞りにくい。

歳を取ってくると選択肢が狭まるから具体的に考えやすいが、なに分時間がない。

 

若い人は特に、自分のこれからを"10年づつの帯"のようにイメージして、少しでもその方向性を考えながら何かを始めるのがいいだろう。

ぼうっと天下国家を嘆いていても、時間は過ぎるばかり。

自分にとって「悩むべき相手」を探そう。

 

夢見(1)

*[次の世代に]何に向かうか。

コロナの影響もあってか、最近「やりたい仕事が見つからない」という話をよく聞く。若い人が多いが、今回の騒動で改めて自分の仕事について考えている中年もいるようだ。

さらに高齢者は自身の健康についても関心が高まっているという。

それはともかく。

"問題は何か"が分かったらその問題は八割方解決している、という。

 「それ」が分からないから苦労をするということだ。

つまり自分たちは普段から「何が問題か」を探していると言ってもいい。

そして「そいつ」が見つかれば占めたもの、と言うわけである。 

 だから、やりたいことが見つからないというのは「問題そのもの」なわけで、だから「それ」を突き止めることが一番重要なことなのだ、という風に考えてみる。

 

先日大学の先生に聞いた話だが、学生と教授の能力の違いは知識の差ではなく「問題設定の力の差」なのだという。

それが適切にできていないと、細かなことで躓いたままスタックしてしまったり、大きなテーマを見失うことになるらしい。

これは自分たちの日常にもそのまま当てはまる話ではないだろうか。

(つづく)

 

革命メディア

*[ウェブ進化論]作り物ではなく。

youtubeで福祉関係の動画を見ていて、その質と量に驚いた。

例えば介護施設の日常の仕事を細かく紹介したり、また「介護を受ける人」の視点から撮影されたものや、病気や障害のある人の日常やリハビリの様子、具体的な向上の方法を詳しく専門家が解説しているものもたくさんある。

 

思えばこれまでテレビや新聞などの番組は、プロデューサーがいて"ある意図"のもとに膨大な時間をかけて作り込まれていたわけで、決して「発信者=プロデューサ」ではなかった。

これが限りなく同一になることで、これまでは「ほぼ埋もれていた出来事」が一気に湧き上がってきているのだ。

(話は違うが、介護の現場では案外技術交流が少なく、みな自己流で作業していたりするのだが、youtubeのおかげで「技術共有」が格段に進むと思う)

 

ノーマライゼーション(ハンディがある人が普通に暮らせる社会)とは言うが、自分たちが知っている知識は、必要を感じている人のごく一部でしかないということがよく分かる。

 

医療にしても、患者の立場から何もかもが発信されるということもなかった。

本人の意思の尊重、とは言うけれど自分以外の情報が得られる機会もわずかだったと思う。

病気の立場からして欲しいことや、自分の心理状態などを発信し、何よりもそれを共有できることで、安心できる。

 

「これまでの番組」と「これからの発信」は全く別物になると思うが、圧倒的な数の違いで「真実」はこれからの発信の側に傾くのに違いない。

これまで報道されなかった戦争とか政治とか、規制とかがどんどん露わになってくる世の中になるだろう。

既存メディアは革命に晒されるのではないだろうか。

 

 

喰い殺され(3)

*[ウェブ進化論]大人を見極め。

ネット動画にあっという間に時間を喰われてしまうことに注意をしていたら、もっとデカい「経済」という敵がいることが分かってしまった。

これは完全に無視できないだけに厄介だ。

適度な距離にいればいいのだが、離れすぎるとお金に窮する。

これはこれで辛いことだ。

だが近づきすぎてのめり込むと、憑依される

経済ゾンビのようになっている人、案外多くないですか?

(まあ権力ゾンビとか学歴ゾンビとか色々いるわけですが)

 

自分は昨今の教養書ブームはそんな「経済ばかりに喰われるな」という世界的な傾向なのではないかと思う。

まあバランス良く生きなさい、ということだろう。

 

そして思う。

大人たちは「そういうこと」に気づいたら若者に言わねばならないはず。

が自分たちは"ゾンビ化"しているから「こちら側に手招きするばかり」である。

いませんか?

大企業や官僚や政治家。

資格業界や不動産業界とか。 

みんなして向こうから「おいでおいで」と手招きしている人たちが。

くれぐれも。

彼らは「向こう側で冒されたゾンビ」だと思った方がいい。

もし自分が冒されたら、今度は向こう側に立ち、こちらに手を振ることになるだろう。

 

ゾンビの言うことを鵜呑みにしてはいけない。

自分の時間を何に使うかは、むやみに大人の意見に従わなくてよい。

色々聞いて、その中で「自分にとって大事なこと」を考える力を持ちましょう。

喰い殺され(2)

*[ウェブ進化論]もっと大きな敵。

ネット上に溢れかえる配信サービスやコンテンツを前に、ただ立ち尽くして思案している自分がいる。

ネットサービスは「ユーザの時間の奪い合い」と言われて久しいが、その度合いはますます強まっている。

 

話は違うけれど、自分は最近【ビジネス書大賞2020 特別賞受賞作】哲学と宗教全史とか1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365とかの「教養系」のものを好んで読むようになっている。

なぜかというと「そういう系の一般教養」があまりに欠けていることに、今ごろ気づいたからなのだ。

そしてまた、最近になってそうした教養分野のことを分かりやすく解説した本が多く出版されていることにも驚いている。

多分。多分だが、世界中がそうなのではないだろうか。

つまり「これまで」はそうした「教養以外のものに喰い殺されていた」のだ。

それは(宗教とか民族の紛争などもあったろうが)何と言っても"経済"だろう。

自分たちは、もう何百年、何千年とコイツに喰われ続けてきたのだ。

 

二十一世紀に入り、その呪いが解け始めているのではないだろうか。

今の教養書ブームは池上彰氏が火をつけたかもしれないが、大きな「時代の要請」なのではないかと思う。

したがって自分たちはまずNetflixを恐れるよりも前に、「経済」というやつに必要以上に冒されないようにしなければならないと思う。

危ない危ない。

(つづく)

喰い殺され(1)

*[ウェブ進化論]何を喰らう。

NetflixとかHuluとかAmazonとか。

アッパー中年の周囲の人たちが次々にハマり出している。

ゾンビ映画ではないが「あいつもやられた!」という感じだ。

居酒屋で「全裸監督は全8話ありましてね…」と早口で語り始めた顔なじみの目つきは、何かに憑かれているようで少し怖かった。

多分、月千円で入会したなら自分も確実に「あの目」になっているのだろう。

間違いない。(汗)

 

コンテンツが無限にたまり、ますます流通速度が早くなる中で、電子書籍やマンガ、ゲームに映画、SNSyoutubepodcastにwebセミナー。

少々閉口ぎみだが、ただどれも知らん顔しているのも勿体ない。

自分たちは今「史上最多のコンテンツ」を得ているのには間違いないのだから。

 

とりあえず「自分の好きなもの」という観点で臨むのはよろしくなさそうだ。

あっという間に何ヶ月もの自由時間が喰われてしまうことだろう。

定額の映画やドラマ配信は闇だと思う。

せめてリタイア後にしましょう。

 

ではお楽しみ系ではなく「向上系」はどうだろう。

何せこちらは勉強なのだから、罪悪感はあまりない。

けれどこれもコンテンツは大学の講義まで含め、めちゃくちゃあるので選ぶのは大変だ。

そしてこちらでも「何のために学ぶの?」「どこへ向かうの?」という本筋のことを考えねばならなくなる。

コンテンツがこれほど"肥大化"している今、自分の時間を納得しながら使うのはとても難しくなったと思う。

(つづく)

 

 

 

昨年の一冊(3)

*[次の世代に]*[読書]これからのルールブック。

 装丁に惹かれて手にとったが、そのカラフルな図説の中身と、まったく真面目にSDGsがやさしく解説してあって驚いた。

街中で大きなバッジをつけている人は多いが、まず本書を一読してからにすると断然深みが出ると思う。

SDGsで17のゴールが掲げられているが、「貧困」「健康」「ジェンダー」「水とトイレ」「クリーンエネルギー」「気候変動」「海と陸」「平和と公正」「パートナーシップ」とどの目標もこれが"世界レベルで共有される"というのは壮大な試みである。

もともと「バラバラでしかない」世界中の国々を前提としよう、と。

これでこそ二十一世紀ならではのテーマと言えそうだ。

 

それにしても著者の落合洋一さんの肩書きはメディアアーティスト。

普段動画などで見ると、まさにニューメディアを操るちょっとデジタル・オタクのお兄さんみたいな雰囲気だが、これほど分かりやすく「これからのルール」を解説した本はないだろう。

大学でも研究されているようなので、多分難しく書こうとすればいくらでも「それっぽく」できるのだろうが、ま反対に。

これほど読みやすく、かつ面白い構成にできているのはなるほど"メディアアーティスト"か、と納得させられる。

知識が息吹き、鼓動しているという感じがする。

 

若い人に手に取ってもらいたい一冊。

 

昨年の一冊(2)

*[次の世代に]*[読書]配りたくなる一冊。

著者のヤニス・バルファキス氏は元ギリシア財務相で財政危機当時の人。今は民主活動家でもある。

昨日紹介した『哲学と宗教全史』と合わせて読むととてもいい。

哲学、宗教、政治、の関係にプラスして「経済」が被さってくるイメージだ。

そして最後には「自分たちの目的は何か」「望む社会とはどういうものか」「何のために生きるのか」という"万物を考える哲学"の世界へと戻ってくるから、"世の中の全体感"がつかみやすいと思う。

 

こうした本と接していると長い長いこれまでの「人間たちの歴史」はどんなものだったか、そして自分は「これまでの延長」で生きていくのか、それとも「自分流」でいくのかということが冷静に考えられるだろう。

まさに「父が娘に話したいこと」に違いない。

執筆の動機は著者の「愛娘へのお話」だが広く子供たち、若者たちに伝えたい内容だ。

若者にぜひとも贈りたくなる一冊。

 

 

昨年の一冊(1)

*[次の世代に]構造を知る。

以前も紹介しましたが改めて。 

二度読みしたのだが、改めて感心したことは二つ。一つは

「哲学と宗教を同時に俯瞰する必要性」についてまず触れられていること。

もう一つは

ゾロアスター教から始まり、一気に現代にまで跳躍する「時代観のつかみ方」である。 

 着目する出来事や人物の選び方とその「粒度」がとても分かりやすい。

 日本の義務教育には、この二つが決定的に欠けているのではないだろうか。

「みなさんは、今生きている世界のいろんなことをよく知りたいですよね」

「そのためには宗教と哲学のことを知るのが早道なので、まず過去をお浚いしましょう」などと言われていたら、自分はもっと勉強していただろう。

 

宗教や哲学がつどつど政治利用されてきたり(またそれは今でも普通にあることで)しかし哲学も宗教も、それ独自で見ると「突き詰めた理由」があるのだけれど、それらが「人」が生活する上でどうしても密接に絡み合わずにいられなかった…というような全体図がくっきりと見えるようになる。

 

しかも「さらに勉強したい人にはこの専門書をどうぞ」と推薦書が随所に紹介されているから、著者の出口氏はどれほどの知識を持っているのかと驚かされる。

凝縮した知識のインプットを"濃くて深いアロマの珈琲"のように抽出した作品だ。

著者も言っているが「何かに行き詰まった時に役立つビジネス書でもある」とも思う。

折に触れて哲学しましょう。

 

 

 

 

 

 

自脳

*[次の世代に]*[糖質]中毒に向かう。

昨年発見した驚きの一つに「脳への問いかけ」というのがある。

少し面白いので紹介させていただきます。

医師に注意されてから、もう15年ほども「低糖質」な食事生活を送っているが、思えばいくつかの波があった。

人との食事など何かのタイミングで「たまたま糖分を摂る」ことがあると、それをきっかけに結構「糖質飢餓」が訪れるのである。

だからといって、いきなり麺類や穀物を食べまくる、というようなことではないが、夜になるとほんの少しの当分を求めて、餅菓子などを食べたりするのが続く。

そしてそれでいて「頭が満足」するわけではない。

まあ薬物中毒みたいなものだと思う。

(本物の薬物から抜け出すのは一体どれほど大変なことだろうか)

それはともかく。

 

昨年もそんな状態が何度かあり、その度に「今日の夜食はどれほどの低糖質で乗り切れるか」ということを考えていた。

そのために自宅には「低糖質カレー」とか「ブランパン」とか「低糖質ピザ」などが並んでいたのである。

もう「夜食前提」で生活が編まれていた感じだ。

そして11月のある日、ふと「お前は本当に今糖分を摂りたいのか?」と自分に問うたのだ。

そして返答はなかった。

ひょっとしたら出口治明さんの『哲学と宗教全史』を読んだ影響だったかもしれない。

コギト・エルゴ・スム(「我思う、ゆえに我ありデカルト)の話が面白かったので印象に残っていたのだろうか。

ともかく「お前は、どう、思うのだ?」と改めて問うてみると、案外「ただ思い込んでおりました」ということになったのである。

 

かくて今は帰宅してから固形物を一切口にせずに済んでいる。

脳というものは、案外「正面からの問いかけ」には弱いものなのではないだろうか。

さて次はいよいよ「酒」にチャレンジしようかと思っている。

 

優先順位

*[次の世代に]やつの足音。

今年は57歳になるのだが来年は58になる。

56、というとまだそうでもないが"58"となると、もうカサカサッと還暦の足音が聞こえてくるようだ。

別に十進法で繰り上がりの年だからなんなのよ、とも思うが「昭和の時代ならまずリタイア」の年齢に達するというのは、自分の中の固定観念がまだ染み付いている。

思えば30歳になる時も「ウッ」と思ったし40ではもっとウッとなったし。

結局最後まで10年ごとにウッとなりながら生きていくのだろう。

 

先日も現役バリバリの昭和10年代生まれの先輩と話をする機会があったが、もうすでに80歳くらいまでは働く時代に入っているような感じがする。

2025年から突入が始まる「超介護時代」だが、介護要員の不足には「リタイア後は介護する側で20年働く」などというスタイルがこれからは一般的になるのではないだろうか。

 そうした高齢期の過ごし方が根付いてくれば、いよいよ「若い世代からの健康管理」が一番重要なテーマになるだろう。

福祉施設を見ていると、つくづく「自分で動けることの大切さ」を目の当たりにするものだ。

老後に必要なのは何千万もの資金ではなく、自立できるための体づくりなのだと思う。

 

禊のあと

*[次の世代に]スタートアップ。

言われてみれば確かに「敗戦と復興」「昭和の価値観」「平成の失われた30年」そして「令和」とそれぞれの"帯"にはくっきりと色がついていると思います。

産めよ増やせよ」とか「モーレツ」とか言う強烈な昭和のカラーはとても強く、それを脱色するために平成の30年ほども費やした、と言うのは後から振り返れば分かるような気がします。

(自分はその当事者で)もったいないことですが、「失われる必然性」があったのかもしれません。

昨日「今年は令和の価値観の始まり」と言うようなことを書きましたが、今年は要らないものはどんどん撤廃したいものです。

ITの世界では、早くも"6G"の開発の話が話題になっていますが、ネットワークが今よりももう二世代も進化すれば、移動とかコミュニケーションは「全てネットありき」の時代になると思っています。

そんな時代に果たしてオフィスは必要でしょうか。

定年はどうでしょうか。

さらには「人手」の仕事はどんどんコンピュータがしてくれそうです。

AIは自分でデータを集め、学習しながら進化します。

人がやるのは「他人の感情にはたらき掛けること」とか「ロジックで判定できない曖昧なこと」くらいになりそうです。

 

今年あたりからそんな「令和のカラー」がコロナも相まって出てくるのだと思えば、色々と「コロナの後の世界」についても希望がもてます。

昭和の禊が終わっていよいよ新しいことが始まるでしょう。