藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

それこそ神髄。

音楽のレッスンももう57回目。
あ、というか"アア!"という間の出来ごとである。
月二回としても四年超。
月一回なら六年分か!

はぁぁぁ。(ため息)
なんで「音楽のレッスン」であって「ピアノのレッスン」ではないか、というと、実はピアノを通して
「音楽への取り組み方」とか
「学び方」とか
「練習の仕方」とか
「上達の心得」とか
「学ぶ意味」とか
「目標の意味」とか
「目標の立て方」とか
「モチベーションはどこにあるか」とか
「プロフェッショナルとは何か」とか
実に色んな事が学べるのである。


若いころには「露」ほども感じなかった習い事は、中年になって人生に影響を与えている。

習い事、とは恐ろしいものである。
そして「人間」とはそんなものを編み出し、追求する実に「稀な生物」なのだな、などとしみじみ思う。

だって自分くらいの技量の者がどれ程楽器を練習しても、そこに「他人様や歴史に影響を与えるような芸術」は恐らく無い。

つまり自分が死んでしまえば、何も残らないはずである。
けれど、人はそんな「残らないもの」に対して相当な努力を傾けたりする。
不可解である。(訝)


いま一つ、"スケールやアルペジオがより滑らかに奏でられる"というようなことよりも、美味い物を食べ、刺激的なギャンブルにでも興じていたほうが、人生は楽しいのではないか。
そんなことも頭を過(よぎ)る。
それはともかく。

自分と第三者。つまり"耳"。

それしても、この年でいわゆる「習い事」をさせてもらう、というのは色んな意味で新鮮である。
大体、周囲の人は七割方「目下」になってしまっている。
つまり「あまり諭されることのない」環境である。
さらに人間も相当「尊大」あるいは「傲慢」あるいは「厚顔無恥」になっているので、少々恥ずかしいことがあっても、その責を自分に求めず「ふっふっ、人生いろいろあるさ」なんて嘯(うそぶ)いてやり過ごすような処世術も身につけている。

それが、師匠と弟子、という立場になれば何もない。
ただただ「芸を習ふ弟子」でしかない。
ちょっとこれが心地いい。
まあ、それもともかく。


ようやく五年を経て、中年の手習いで気付いたことのお話。

それは「自分の音を聴く」。ということ。

これは、多分日常生活で「自分の声を聴く」ということや、仕事などで「人の言葉を聴く」ということにも直接繋がっているようである。


まず。
自分が出す音を自分で聴く。
これが難しい。
もしこれが出来ると、おそらく「他人が出す音や言葉」も耳を澄ませて聴ける。

そういう聴力が付くということだろうと思う。

自分の声を、自分がきちんと「聴く」ことができれば、その人の聴力は一流である。
恐らく、「一流」になるためにはそういう「聴力」を備えねばならないのである。
そして、他人の言葉を「正確に聴く」ということも出来るようになる。


反対に、これが出来ないと"耳音痴"。
一緒にカラオケに行っても迷惑なように、「自分の声も分からないし、他人の歌も聞こえない」。
社会にはそんな人がなんと多いことか。

人の言葉を聴けずに、さらには自分の言葉も定かでなく、日々周囲からの刺激に反応するのみ。
そこには「エゴの気持ち」しか存在しないようである。

まず自分の出す(話す)"音(言葉)"を聴く力を持つこと。

そして、人の言葉を聴く力を持つこと。

そんな"聴力"を鍛えることが重要ではないか、と音楽を通じて感じるのである。
ベートーベンは、現代に生きていれば素晴らしい聴き上手だったのかもしれない。
(池上彰さんみたいだったりして。)

エラそうな話は終了して、練習あるのみ。
はあ。