藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

差別は思考の欠如でしかない。

自分たちが小学生くらいの時期に連載されていた漫画「はだしのゲン」が閲覧制限されているという話。
それも大阪で。
思えば確かにショッキングなテーマの漫画だったが、それにしても教育的な部分が強く、また戦後世代にとっては知らなかった戦争の事実を知らしめる意味で社会的な作品だったと思う。

今回の閲覧制限問題を聞いて思う。
「差別そのもの」をなくすのか、「差別のある表面」を糊塗するのか。
政治家ははっきりとその表明をするべきである。
その後すでに半年ほども経つけれど、この問題について新しい見解を打ち出す自治体や教育機関は見当たらない。
日本人得意の"事なかれの術"である。

自分は十代まで関西に暮らしていて、本当に「びっくりするような」差別行為が、実社会にあることに驚いた。
能天気に遊んでいた同級生や、近所の家族や、あるいは特定の地域が差別視されていた。
それも表面には出ない形で、さらには行政も関与している状態で、日常の中に堂々と存在していた。
それはアメリカの黒人差別のように分かりやすくはない、ある意味陰湿で潜行しているローカルな表面化しにくい問題だったのである。

二十代になり、東京に移住し、また東南アジアや欧米に行く機会を得て「国際性」とか「人種観」とかいうものが、(大げさに言えば)地球的にどんな程度のものか、と知らされて「差別」というのは実に政治的であり、階級的であり、また経済的な背景をもって生まれるものだという認識に至っている。

表面上の地域差別や人種差別を偽善で塗り固めてしまうことは、問題の根本的な解決にはならない。
差別はなぜ生まれ、なぜそういうプロセスを辿ったのかということを明らかにせねば、皆が「腹落ち」する将来にはつながらないと思うのである。
もとより日本という狭い島国の中のことだけれど、表面だけを塗り固めて「事なかれ」にするのは今後につながらないと思う。
そろそろ問題の本質に切り込み、対峙すべきではないだろうか。

はだしのゲン、差別的表現多い…問題視した市長
原爆の悲惨さなどを描いた漫画家・中沢啓治さんの代表作「はだしのゲン」について、大阪府泉佐野教育委員会が全市立小中学校の図書室から回収し、閲覧制限していたことがわかった。
作品に「差別的表現が多い」として、千代松大耕市長が要請、中藤辰洋教育長が指示した。市教委は20日、指示の撤回と漫画の返却を求める市立校長会の要望を受けて各校にゲンを返却するが、管理職に対し、児童・生徒に「人を差別したり傷つけたりする言葉なので使ってはいけない」と指導するよう求める。

 「はだしのゲン」を巡っては、松江市教委が昨年8月、「描写が過激」として市立小中学校に閲覧制限を要請していた問題が発覚。それを受け、泉佐野市教委は各校に「ゲン」の所有状況を調べた。