藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

終わり思考実践

*[7つの習慣]なんとなくにしないために。

これまで何度か書いている「反射的に考える」シリーズの応用編。

思考のショートカット。

 

朝起きたら、まず「今日の終わり」を考える。

つまり目が覚めた寝床の中で、今日夜再びここに横たわる時のことを考えるのだ。

「今日寝るときにはどんなメンタルになっているかな?」とか。

そうすると何となくでも「今日はひょっとしたらいい気分になってるかも」とか「マズいな、色々とごちゃごちゃ考えてしまいそうだ」とかとかの思いが過(よ)ぎる。

嬉しいことなら放っておいてもいいが問題なのは「嫌なこと」「ややこしいこと」である。

いや嬉しいことも「最高に嬉しい気分にするため」には、さらに何かできることもあるかも知れない。

で嫌なことについてはサッと「影響の輪と関心の輪」を思い出す。

 

自分で御しようがない「関心の輪」については、運に任せて除外する。

そして影響できることについてはベストを尽くす。

これで葛藤はずい分少なくなるだろう。

 

そして、そのまま今週の終わりを考える。

できれば「今月の終わり」も考える。

 

あんまり先だと嫌になるから「今年の終わりまで」くらいに留めておく。

 

一度スマホのメモに音声で入れてみると、案外面白い。

また報告します。

リセットの時代

*[ウェブ進化論]ゼロから考える。

子供のころは毎日が「新しい経験」ばかりだった。

それまでの蓄積は何もないから当然だ。

そして自分たちはどんどん経験を積み、社会人になると「いっぱしの経験者」になってゆく。

それから家庭を持ったり、部下を持ったりしてさらに経験を積むのだが、その一方で「初心らしさ」はどんどん失われる。

 

今の時代の若者から見て、一番嫌なのはそうした「年寄りの硬さ」なのではないだろうか。

決まったロジックの正解があるから、常にそれに押し嵌めて正解を導こうとする。

けれど実はそこに正解はないだろうことは、何となく分かっているのだ。

過去に成功した世代の人たちは、「次の時代の正解」にたどり着けない。

というか、次の時代には「決まった正解がない」と言われているのだ。

 

だから"本当にゼロから考えてみる"ということが大事な時代になっているのだと思う。

反対に言えば「これまでの正解を疑い、捨てる」ということだろう。

ちょっと戸惑うけれど、実はこれからのことを考える方が楽しいものだ。

これまでの「正解ショートカット」は脇において、フラットにこれからのことを考える時代に入っている。

 

これまでの正解は正解でなくなった。

これからはいろんな正解を作り出す。

 

ようやく"オリジナル"が花開く時代になってきた。

主従逆転

*[次の世代に]自由が主役。

一日中の「タスク」を分けて見てみる。

風呂とか筋トレとかストレッチなど、予めのルーティーンは「強制タスク」とする。

そしてそれ以外のタスク、例えば「さらに運動しよう」とか「予定にはなかったけれどもっと歩こうか」というのは「自発タスク」としよう。

 

平日の仕事の予定などは「強制タスク」。

そして平日の予定のない「空白時間」にいかに「自発タスクをはめていくか」を考える。

休日は、予定されているルーティーン以外は全部「自発タスク」と考える。

そう思うと、休日というのは「真っ白いキャンバス」のようなもので実に「自由に楽しい絵を描くチャンスにあふれている」という風に思えてこないだろうか。

 

FIREよろしく「自由」というものがどんどん手に入る時代になってきている。

まだ今は「目の前の自由」に戸惑っている人が多いけれど、そのうち自分たちの生活は「自由」が基本で、やりたいことのためにあえて「ルーティーン」を選んでいくようなスタイルになるだろう。

 

週に一日だけ自分のやりたい仕事をして、あとは仕事をしなくても構わない。

その代わり本当にやりたいことを考えることになると思う。

まるで昔の中国の「富豪に養われる食客」のようだが、ようやくそんなスタイルが世の中に普及しようとしているのではないだろうか。

 

これからの日常は楽しいことが多くなりそうだ。

真贋はいかに

*[ウェブ進化論]見極めの練習。

チャンスはどこにでも存在する、という。

「けれどそれをつかむ人と見過ごす人がいる」というのもずっと言われてきた話だ。

チャンスというのは、実は一見"チャンスの姿"ではなく、しばしば「リスク」の姿をしていることもある、ということだ。

 

つまり、そういう「何かの機会」というのは「受け取る人によってチャンスにもリスクにもゴミにもなる」ということが核心なのだろう。

パッと見にはリスクとか厄介ごとに見えることは、よく聞いて解きほぐしてみると「チャンスの原石」だったりもするのだ。

危ない仕事がお金になるのとどこか似ている。

けれど、周囲の機会をなんでも「これはチャンスの可能性がある」と食いついているとかなり痛い目に遭うこともある。

 

日常に起こる多くの情報を「チャンスになるか、それ以外か」という目で「篩に掛ける」という技術が必要なのだと思う。

よくあるチープな投資話に簡単に引っかかってしまうことは世の中には頻繁にあるが、そうした「篩の目」が備わっていればずい分と精度は上がってくるだろう。

 

つまり世の中には実にそうした「無責任な持ちかけ話」がとても多い。

そうした玉石混交の世界の中で「嘘か真か」を見分ける練習をしている、と思えばいろんなことが面白く感じられるだろう。

 

そんな楽しみを日常に感じてはどうだろうか。

 

常識を打ち破るということ

*[ウェブ進化論]座して待つことはない。

サラリーマンは二度死ぬと言われているらしい。

役職定年と定年の二回死ぬと。

で本当の寿命を入れると三度死ぬことになる。

007でもあるまいに。

これを聞いて「さあ自分もサラリーマンになろう」という若者はどれだけいるのだろうか。

寿命は仕方ないが、でもそれ以外は何とかなりそうだ。

 

にもかかわらず。

定年に際して、座して沈んでゆく人のなんと多いことだろうか。

「だからリカレント教育云々」などとすぐテクニックの"how to"の話をするところが短絡的である。

スキルありきで「何するの?」と話すのではなく、二度の死後について「どう生きるのか?」ということについて、事前に仲間で集まって相談してみてはどうかと思う。

一人で孤独を感じている人も多いだろう。

名付けて『セカンドライフを考えるってどう?。』

ベタだ。

 

不動産投資などでは仲間内でSNSを使って情報交換をしている人は多いが、定年を控えた仲間同士でそういう今後の思いつきを共有するのは有効なのではないだろうか。

例えば「キッチンカーを使ってできそうなこと」とか「移動コンビニはどう」とかあるいは「いっそ"あって欲しいサービスお訊ね隊"を始めてリサーチしてみるのはどうか」とか。

 

いよいよ昭和のリーマンたちが、自ら動いて後世のお手本になる時代に差し掛かっている。

これからが踏ん張りどころなのでないだろうか。

 

数十年かけて

*[ウェブ進化論]比較のない時代へ。

昭和の価値観のことを何度も書いているけれど、つまりは「正解があった時代」とか「他人と比べる時代」だったのだろう。

(正解と言われる)目標が大体いくつか決まっていて、それに向かって「一斉にスタート」だとすると、そこで横並びの競争が起きるのは無理もない。

自分もその中にいたけれど、そういう時は「その他の世界」というのはアウトローにしか見えない盲目的な状態になるものなのだ。

集団の"意識形成力"の支配というのは実に恐ろしい。

 

そしてそうした「比較グセ」がついてしまうと、「あらゆるものを自分と比べる」マインドになるものだ。

広い世の中の誰かとか、あるいは会社の中のライバルとかと自分を比べて「あらゆる比較で優位になろうとする」とそんなことができるわけは無い。

その状態はもはや「比較に勝つこと」が完全に自己目的化していて、でもそういう人は三十年前には、圧倒的多数派だったのだ。

 

一方、今の若者はあまり比較しないというのが特徴だ。

世界に一つだけの花」という歌がリリースされてちょうど20年経つ。

ようやく世間にそんな価値観が浸透してきた。

 

アーティストの時代のセンスの凄さを感じる。

時代はゆっくりと変わるものなのだろう。

己を知る(3)

 *[ウェブ進化論]すべて今からの選択。

最近「どんなことも、所詮これからの話である」ということを書いている。

これ、自分で毎日そう思うことが多い。

 

「今日以降の自分は自分で作る」という当たり前のことが、自分たちはしばしば見えなくなるからだ。

なんだかもう自由がないような気がして息苦しさを感じる人は案外多いのではないだろうか。

 

すべての現状をリセットするとか止めてしまう、というのは極端に感じるけれど「それもアリかも」と考えるだけで思考の幅が広がる。

肝心なのは「現状の道筋がそのまま続くだろう」という思い込みバイアスにある。

 

良くないことはつい目立って、そればかり考えてしまう性質があるのだろう。

従って、落ち込んだりよくないことが起きたときこそ、いかに早くそのショックから脱し、客観的な視点になれるかどうかが、最も重要なことになる。

 

例えば、意図しない犯罪に巻き込まれたり、事件をきっかけに、そのまま坂道を転がるように転落していくストーリーなどは映画などでよくある設定だが、そういう人たちだって、実はどこかで止まって冷静に考えてみれば、挽回のポイントはいくらでもあったはずだ。(それでは映画にならないだろうが)

 

つまり、自分たちの日常は「そんな分岐点や見直しの連続」だというように捉えることができる。

 

改善のチャンスは、今日からも無限にある。

 

己を知る(2)

*[ウェブ進化論]手遅れは実は手遅れではないこと。

「もはや手遅れ」というのは、普通もうそこで詰んだ状態のことをいう(若者が詰んだ、というのは日常会話になっているらしい)。

ところが現実には、それこそ命がなくなること以外は「案外手遅れでは無い」ことが多いものだ。

つまり絶命するまでは「チャンスあり」という話である。

 

死んでしまうまでなら、どんな復活も自分次第なのだ。

ということはつまり「どれだけ早く"手遅れであること"に気づけるか」ということがかなり大事な話になってくる。

死んでしまっては全ては水泡に帰するのだから。

「そろそろヤバいな」というのも手遅れの兆候だし、「いよいよ首が締まるぞ」というのもそうだ。

 

つまりは「マイナスに気づく力」ということなのだろう。

そして臆病なリーダーは、まだ順風なうちからも「この先に試練があるかも知れぬ」などといって仲間には疎まれながらも先を見ようとしていることもあるだろう。

 

繰り返していう。

「絶命するまでなら復活は可能なのだ」ということを予め腹に呑み込んで生活しよう。

大抵のことは挽回ができる。

 

重要なのは「手遅れに"早めに気づけるかどうか"」だ。

絶命するまでは、しつこく行こう。

 

己を知る(1)

*[ウェブ進化論]予兆の記録を。

「健康な時に健康の有難みは分からない」という普遍の法則があるけれど、この法則は実はあらゆる日常に当てはまる。

 

物事が順調な時には「その先のいいこと」は考えられても、何かのエラーが起きた時にはそれが「なんて突発的なんだ」と感じてしまうのは実に不思議な感情だ。

(ちなみに物事を悲観的に見る人もいるが、そのための準備を遺漏なくしている人も見たことがない)

多分人間というのは健康な時には「健康、健康」と意識できない生き物なのだろう。

(そりゃ人生の目的が「健康に天寿をまっとうすること」というのは、分かるけれどどこか違う気もするし)

それはともかく。

 

なのでいつも「突然のような気がする禍事」を見逃さないように、何か少しでも予兆を、それも「よくない予兆」を感じたらスマホにメモするように最近している。

「少し膝の調子が悪い」とか「会社の業績に翳りがある」とか「家族との関係に摩擦がある」とかなんでもいい。

 

その「日常生活ヒヤリハット」をずっと眺めてみると、健康診断よろしく「大体自分のよくない傾向」というのが分かってくる、というのが本日の核心である。

(同様に心理療法で「自分の怒りの感情を紙に書き出す」というのは広く用いられているらしい)

 

まずは自分を可視化する、ということなのだろう。

(つづく)

 

日常の変数

*[7つの習慣]ルーティーンも変え方次第。

夜寝る時間とか、起床時間とか。

ストレッチとか入浴とか。

筋トレとかウォーキングとか。

そうしルーティーンは、定着すればするほどあまり疑わないものだ。

そんな基本行動だからこそ「本当にそれでいいのか」を定期的に見直したいと思う。

 

例えば就寝時間を一時間早めるだけでも寝覚はずい分と変わってくるものだ。

また自分の友人にはCPAP(持続陽圧呼吸療法)を取り入れて、劇的に睡眠の質が向上したという人もいる。

 

身体の老化ももちろんだが、精神状態の移り変わりによっても「今の自分に必要なこと」というのは変化するものである。

若いころに「運動とか頑張ること」が中心の日常で良かったものが、歳とともにその内容も変わってくる、ということを意識すれば自分たちの毎日は結構刺激のあるものになるのではないだろうか。

 

意識して夜型にしてみる、とか

体内時計は少し長いと言われる、一日のサイクルをどうやって24時間に合わせるのか、とか

仕事や家族とのコミュニケーションのタイミングと方法を変えてみる、とか。

自分たちの日常には、案外そんな"変数"がたくさん存在する。

 

そんな変数を「固定値」と思わずに、色々と試してみるのが"適応力"になっていくのではないだろうか。

 

さて、まずは自分の変数を見つけてみよう。

 

デジタルの誤謬

*[ウェブ進化論]メディアの終焉。

とはいっても新聞や週刊誌の紙メディアがどう、という話ではまるでない。

 

20年前に買ったテレビが壊れた。

すでに、もう自然災害があった時の年に3回くらいしか見なかったのだが、果たして新しいテレビは今の自分には必要なのだろうか。

 

そして、壊れたハードディスク付きの42インチのそのテレビは、その「録画していた一番見たかったはずの番組」とともに逝ってしまった。

けれど今に至るまでに見ていなかったその録画番組たちは、果たして本当に見たかったのだろうか。

10年も録りっぱなしにしておいたデータとはなんだろうか。

恐らく「いつかは読みたい積ん読本」のようなものだろう。

 

つまりデジタルデータもこれからは「アナログ書籍並みの管理」が必要なのではないだろうか。

デジタルメディアは、ともかく移り変わりが激しい。

40年前、8インチのフロッピーディスクは、当時は持てはやされていたが今では読み取りすら難しい。

 

デジタルメディアは無限に便利だが「永遠に保存」する性格のものではなさそうだ。

デジタルは、その技術的な革新性のために、将来に渡っては「アナログ的な残り方」ができるかどうかが重要だと思う。

 

今多くのデータセンターが、ほとんど無料で残してくれているデータは、果たして100年後、千年後に記録が保証されているかどうかは定かではない。

 

本当に重要な記録には、まだ紙が必要な時代なのではないだろうか。

 

計画の本質(4)

*[ウェブ進化論]基本動作を。

最近何回か「目標と計画の話」を書いているが、つくづく原点回帰の重要性のことを思う。(習い事のお師匠さんは、いつも「基本に帰れ」というのとどこか同じだ)

 

ビジネスにせよ、プライベートにせよ自分たちは何か目標を思う。

「この事業の将来性は」とか「私たち二人の夢は」といった具合だ。

そしてそれはとてもいいことだ。

だって思いがなければ何事も始まらないから。

 

そしてスタートしてからが問題だ。

自分たちの生きている世界は、ほとんどが「他人との関わり」でできている。

だから「思うようにいかないこと」がすぐに周りに溢れてくる。

自分のビジネスや家庭のパートナーだって、人格は別々である。

そうして計画はしばしば、いやほとんどの場合当初の想定どおりにはいかないものだ。

 

けれど実は「本番はそこから」である。

若い人はそういうことを知らないことが多い。

何かエラーが起きたら"ゲームオーバー"だと勘違いするのである。

むしろ不具合が起きているということは、自分たちが「外部と馴染もうとしている」ということの証拠である。

だからそこからが踏ん張りどころなのだ。

 

そして起点にしたいのはやはり「当初の目標と計画」との比較だ。

PDCAサイクル、というと「今さらですか」という表情をする人が多いけれど、結局原点はここにあると思う。

 

目標の修正だって全然ありだ。

基本に帰れば道は開ける。

計画の本質(3)

*[ウェブ進化論]自分で作るこれから。

事業計画にしても、ましてや自分の「人生の計画」についてはあまり作っている人も見たことがない。

(というか大経営者といわれる人のインタビューでも「これまでは行き当たりばったりでした」という人が多いのには驚く。人生は思うよりもドラマチックだ)

けれど自分たちの日々は「思い(目標)と段取り(計画)」の結果であるということには違いないから、毎日の中ではもちろん、大きな"自分の一生の計画"(さらにはもっと長い志もあるかもしれないが)については、一年に一度くらいは考えてみるべきだろう。

 

二十歳の若者が「一生分の計画を考える」というのはむしろ、何か「型にハマった成功パターン」みたいになりそうだから、

まずは「向こう三十年の道筋」を仮に想像してみると良いのではないだろうか。

そして、とにかく具体的に年表にして書き出してみて欲しい

 

その三十年分の紙は「自分の未来年表」に違いないから、今の目標だって違うなぁ、とかもっと面白いことはないだろうか、とか「面白くない。もっともっと自由に」とかを色々と想像してみたい。

未来はどうにでも描けるものだ、と思えればしめたものだ。

 

自分が思う成功というのも途中で変わるかもしれないし、固定的な正解はない時代だから、毎年「自分の未来の航路」をあれこれとシミュレーションしてみられれば楽しいだろう。

 

大事なのは「自分で行き先をあれこれ考えているのだ」という主体性である。

 

 

計画の本質(2)

*[ウェブ進化論]一番長い計画。

自分も人生も60年目を迎えることになり、確実なのは「体調の維持に必要な時間と手間」が右肩上がりに増えているということだ。

ストレッチや筋トレ、サプリメント摂取のルーティーンはこれから増えこそすれ、減ることはないだろうし、またそうした細かい手間を惜しむとドカンと大きな破綻に繋がる可能性もどんどん大きくなってくる。

「年を取ると考えはより大胆になり、行動はより慎重になる」と言っておきたい。

それはともかく。

 

昨日、「テスト(受験)に限らず、ビジネスでも結局"着地点(目標)と計画"こそが最も大事な二要素である」という話を書いたけれど、さらに重要なのはビジネスよりも自分の人生である。

 

「人生の計画を作る」というと何か重たい感じがしてしまうが、結局「着地と計画」の産物であることは間違いない。

まあそんな風にキチキチと考えて生きている、という人は特に若者には少ないとは思うけれど、日々を浮浪雲のようにふわふわと生きていたとしても、それは「そのような(着地を定めないという)方法と計画」なのであって構造的には変わらないことだと思う。

 

そして何より、小中学校の卒業文集以来「将来の夢」とか「人生の計画」なんて考えない人の方が多いのではないだろうか。

けれど人生は長短はあれど、一直線に終わりに向かって進んでゆく。

 

目標管理というのは煙ったいけれど、一年に一度くらいは「自分の計画と今の比較」をしてみてはどうかと思っている。

 

自分の場合、そんなに先は長くないわけだし。

(つづく)