少年時代には、素直にその漫画の面白さにお世話になっていた。
友人の家で読んだ週刊誌の天才バカボンのある回のこと。
作品中に絵がなく、「コマ割り」しかない真っ白の空白を多用し、あり得ないくらい「手を抜いてやるゾ!」いう主旨で読者を驚かせる一作は、涙を流し、呼吸困難になるほど友人と笑ったのを思い出す。
最近ふせっていたとは聞いていたが、そのまま永眠。
いつもそうだが、人がなくなって初めてその偉業に気付くのも何か残念に思う。
バカボン、という言葉がvagabond*1の「さすらい人」という意味だと知ったのは最近だ。
天才バカボンは「天才漂流者」という意図だったわけで、「賛成の反対」とか「忘れようとしても思い出せない」などの有名なフレーズは、何かただの「ギャグ」をしていたわけではなく、「ある達観した天才」が人間社会を放浪し、人間そのものに嫌気がさしながらも生活してゆかねばならない、というある種「絶望的な明るさ」の表れだったのかもしれない、と思う。
そう聞かされるとバカボンのパパの物言いは、どこかシニカルで、深く鋭いニュアンスにとれてしまう。
最高の弔辞
タモリを見出し、同居させて世話をしたエピソードは有名だ。
手塚治虫、石ノ森正太郎とならび称される赤塚富士夫。
シャイで麻雀は人からは上がらず、ツモだけで上がって常敗だったという。
人にだまされても決して悪口を言わず、友人が死んでも笑いながら涙を流していたという赤塚富士夫。
生まれて初めて弔辞を述べるというタモリの、心からの一言は心に沁みる。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。
それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。
すなわち『これでいいのだ』と。(産経ウェブより)
これが天才バカボンだったのだ。
弔辞はこの一言で終わった。
さすがタモリ。
その場におらずともジンときた。
私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。(中略)
しかし、今お礼を言わさせていただきます。
赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。
私もあなたの数多くの作品の一つです。
合掌。
平成20年8月7日、森田一義。
合掌。