藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

一つの口と二つの耳。


人はよくしゃべる。


特に女性はよくしゃべる。


といいつつ、自分だってそうだ。
話はじめると口が疲れて、口角の筋肉がついていけなくなるのに気づくことがある。
人はそんな自分を見て「スイッチが入った」などと言う。


哀れな。


これほど「しゃべる」という行為は重要なのだろうか。


昆虫でも、クジラでもサルでも「会話している」というが、人ほど二人になればしゃべりまくる生物はいない。
井戸端会議とか。
うわさ話とか。


到底「まともな目的」のために「話す器官」を使っているとは思えない。


そんなことをカフェの目前で機関銃のようにしゃべり散らす女性二人を見て思う。


話す、という浄化


カタルシス(浄化)、ともいう。
我われは一つしかない口で話し、二つある耳で話を聞いているのか。
目と同様、単に立体を把握するための進化の産物かもしれぬが。

「話したから」解決したか。
「話すこと」が結果良かったかどうか。


ともかく「話す」ことは浄化を伴うらしい。
それなら、カラオケに興じるオフィス街の人たちも、町のおばさんも変わりない。

なら「話さない」という修行もあるのか。

幾分ウルさいかもしれぬが、「話して」鬱憤を晴らす。
それはそれでよいが、「それはそれで終わり」ではないか。


人に話して共感してもらいたいようなことは、グッと溜めて、そして「自分の思う方向」へ持ってゆくような努力があるのが必要ではないか、とも思う。

思いを、周囲に何でもぶつけるのではなく、しかもそれは「生活環境の違う人同士とも関係し合いながら」だとより効果的。
話し、あるいは溜めない、という日常のストレスは、鬱積することで「マグマ化」する面もあるのだろう。

いずれにせよ、新しい思考の培養方法はありそうだ。
いちいちトイレに流さぬよう。