藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

あらあら。


最近、ブログをつけているのに、またそれ以前のように一週間が早い、と先日書いたが。
ブログ前に、かなり方向感を失って、それはちょうど四十歳になりたてで、初めて経験する「肉体の老い」との対面のせいもあったと思うけど、あのころ感じた時間感覚のなさとは少し違うのだが、一週間はずい分早い。


昨年、それまでの生活に決別し、新しい事業展開を決行したわけだが、やはり存外これが楽しく、今その前の十年の決算をしながら新しい事業にチャレンジしている気分なんである。

仕事の現場にも入るし、若い仲間とも膝つき合わせてタメで話すし。
お客さんの顔も見えるし。
何より人のお役にたちながら、まだまだ未知なマーケットに挑戦する、という十年前の感覚はさほど古びていないこと。


自分が法律、というものと出会ったのはおよそ十年前だが、その社会性とマーケットの広さに魅了されて以来、以前としてこの分野の可能性は広がっている。
ということをまた最近再確認している。


今度は「法律家頼み」ではなく本当に求められているサービスの「商品設計」ができそうな予感で、「失われた十年」は失われていないのだ、などと予感する一方、だからこそ「これに賭けた十年」にできるかどうかは、この一年の頑張りなのだ、というかんじがヒシヒシとしている。

つくづく、人生なんて「後から肥し」にすれば、どんなことだって栄養源にできるのだ、などということを噛みしめる45才。

人間五十年、とも言われていたがそんなオレは大丈夫か。(汗)


「楽しく過ごす」というのは大事だが、ただ楽しめばいい、楽しい感覚があればいい、というのではなく。
なぜ楽しいか、と言えば未来に「希望」があるからである。
何か「夢」的なものがあるからである。


だから「夢」を持ちましょう、というのはこれまたそれが自己目的化している。

うまく言えないが、自然に「夢」を持てる心理状態があって。
だからその夢、を想いながら頑張れる自分がいて。


そんな大きな夢があるから、毎日が一見「地味」なことの繰り返しであっても、投げ出すことなどなく。


「そんな一連の思い」を言葉で解説してしまうと、夢を持つ、とか思考は実現する、とかなにか陳腐な表現になるけれど。

自然に、夢あり、仲間あり、着実な日々あり、それたち全体が「楽しみ」でもあり。


どれ一つを人工的に作り出すことなく、全体を仕上げていく。
上手く言えないが、そんなバランスが結果的に人生をトータルで楽しく、充実したものにしていくのではないか。


人間五十年はもうすぐ終わりそうなのに、まだそんなことを考えている。


いやはや、さはさりながら。


いやはや。