人生にイベントはつきものだ。
また「こと」が起こってからオタオタすることも多い。
葬式。
自分はいつご臨終するのか。
十年後か、二十年後か。
あるいは五十年後か。
マックス七十年後か。(115才やんか。さぶ)
なんと事前に準備しておけば半額程度にも安くなるという。
我われは人の葬式、結婚式には一定の感想を持つが、「自分のこと」には至って無頓着だ。
もちろん「読経不要、戒名無用」というのだって選択肢である。
遺産分割。
まあ「アホな子」たちが、大人のくせに、つかみ合いのケンカをする例は枚挙に暇なし。
「おのが汗」で稼いでいない俗物について、より人は「所有欲」を発揮するようだ。
はた目にはいと、あさましきこと。
親は、必ず草場の陰で泣いているだろう。
自分も何度か目の当たりにしたことがある。
カネに目が眩んで眦(まなじり)を吊り上げた大人ほど不細工なものはない。
カネの亡者とはよく言ったものだが、まさに「亡者の顔」である。
(ただ、こういうのは一度見てみると強烈な反面教師となって、教訓的に効果がある場合もある。そう考えると、みる側と見られる側、いつも交代なのだろうか)
優先したいこと。と、急ぎたいこと。
優先度と緊急度、を軸に物事を考える。
そうすると何でも、必ず上手くいく。
重要でない勉強(そういうのがどういうものか、は問題だが)などやるべきではない。
また緊急だから、といくらでも時間を費やしてよいものではない。
イベント、には重要なものが多い。
だが、日常身の回りに起きるのは「決まったイベント」よりは、日々の「突発的な」事件である。
「その日の突発事件」に対処しているうちは、「イベントが見えない」。気づかないのだ。
で、これに気づけばずい分、人生の見晴らしが変わってくる。
今の自分、に必要なもの
さて、学生さんか、就職活動中か、社会人か、三十路の人か。
その時々に「重要なもの」は違うだろう。
「今の自分に一番重要なことは何か」ということをしばしば我われは「自分のこと」については見誤る。
例えば「会社全体のかじ取り」が重要なのに、「会社の中での自分のポジション」しか話題にできない人、などは卑近な例である。
親しい友人にも聞きながら。
今、自分にとって「大事」だと思えることを聞いてみる。
そこでは驚くような、隠れたアドバイスが返ってくるものである。
『岡目八目』。
他人様の目、ほど自分を映しているものはないのだ、という近世のことわざは全く正しい。
そんなことをしみじみ思うのも、人生そろそろ半世紀、という時期なのだ。
滑稽だが、現実なんである。
自分の客観的な位置、はつくづく、他人の眼が頼りなのだ。