藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

本当の意味。

学問をして実践をしない人は、鍬を買って畑を耕さないようなものだ。

二宮尊徳

この言葉の意味は重い。
座学、耳学問
批評。


みな、知識は一流だけれども「重み」を欠く。

アウトプットの意識。


学生時代の勉強もそうだが。
特に社会人になってから。
今やネットを通して「インプット」の情報量は膨大に脹らんでいる。


まるで耽溺する、という表現がそのまま当てはまるように、「ドッと」日々、情報が流れ込んでくる。
もちろん考察の深いものばかりではないが、その代り「リアルタイム性」ではそれ以前と比べるべくもない。
「そんな質の情報」にもう、我われは囲まれてしまう環境になった。


そしてそんな時代にブログ、などというメディアも登場した。

今の時代は、インプットされる情報量がそれまでとは格段に増え、
また格段に即時性を持っている時代なのである。

そうすると、「皮相的な一次情報の量」とか、ただただの「リアルタイム性」というものは、今や相対的に価値が出にくくなってくる。
つまり、いたずらに雑多な知識を集めたり、ただ新しいだけの情報、というのは「それだけ」の価値しか持たなくなる。


そこで注目すべきは「アウトプット」ではないか。
冒頭の二宮尊徳翁の言葉。


知識も思想も。
「アウトプット」してなんぼである。
特に今の時代、このアウトプットを意識せねば、「インプット主流」の流れに押し流され、そのままインプット中毒になって、自らが何かを発信することがなくなってしまう。


「学問をして実践をしない人」というのはそれを象徴している。
もっと端的に言うと。
「できないとか、難しい」とか、理屈ぱっかコネて、一向に解決に向かわないとか。
何でも知ってはいるのだが、何一つ「新しいアイデア」が出てこないとか。


「学問」が容易になった今日だからこそ、アウトプットの質と量に、自分たちは注意を払わねばならない。
そんな時代に差し掛かっているのだと思う。


そしてそんな局面においても二宮尊徳のことばが相似て当てはまる、というのも言い得て妙ではないか。
真理はいつの時代も変性しない、ということだろうか。


自分も「アウトプット」を心がけていこう。