藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

民主主義の赤字。

衆院選について、asahi.com・論説主幹の大野氏のコラム。

sustinableという言葉はここ数年改めて「次世代のスローガン」のように用いられているが、要は「長いお付き合い」ということであり、つまり今のITネット社会などになる数十年前までは、ごく普通の人たちが唱えていた「人付き合いでの取り組み」にほかならない。
つまり、現代はそうならなくなっているわけで、だから「持続可能な」とか「ゴーイングコンサーンとは」とか改めて取り沙汰されているだけである。
何か英単語にして新しいことのように言うが、スカッと忘れ去ってしまった過去の叡智をひも解いているだけなのは、皮肉な感じがするものだ。

コラムが指摘するように、今の政治のプロセスは「構造的に出口が無くなっている」という様子が良く分かる。

増税社会保障改革など痛みをともなう政策に政権党が行き詰まる。
選挙で楽観的な公約を掲げた主要野党に政権が交代する。
しかし、そこも公約を果たせない。
問題の解決をもたらせない選挙は、気にいらない政党や政治家に「ノー」を突きつけて留飲を下げる政治イベントへの色合いを帯びる。
スカッとするような主張を掲げる新しい政党や政治家に注目が集まる。
その人気に主要政党が浮足立ち、自らもポピュリスト的で単純な主張に傾く――。

日米欧の先進諸国は正にこのサイクルを繰り返しているではないか。

増税の必要性を説く政党の横に、颯爽と「減税なにがし」という党が現れる。
見た目には心地よく、スカッとするから支持される。
けれどそいつの約束が果たせないとみるや、すぐに首を飛ばして次に乗り換える。

答えが簡単には出ない時代、むしろ正しい問いを立てている政治家や政党にこそ目を向けなければならない。
われわれメディアも正しい問いを見分けられるかどうか、眼力が問われる。

メディアの眼力は、大衆が左右する(と思う)。
分かりやすく、のど越しの良いスローガンではなく、またいたずらに「経済成長すれば何でもよい」という根拠のない作戦でもなく、国民が「生きることへの不安」を払しょくできるような政策の立案を目指してもらいたい。
人気取り、劇場型の政治がいかに続かないか、はこの十年で国民も身に沁みている。

単なる政治討論ではなく、メディアには「政策比較」をぜひとも重点的に報道してもらいたいものである。

正しい問い、見分ける時 論説主幹・大野博人
この解散は、有権者への挑戦でもある。

政治家たちは選挙への影響を気にするあまり、「一票の格差」という民意とのチャンネルの不具合も修復できないまま袋小路に入り込んだ。そして今度は、解散・総選挙で「国民の信を問う」という。

多くの民主主義国で、民意が政策に結実しにくい「民主主義の赤字」が問題となっている。そんな民意と政治と選挙のちぐはぐを象徴するような情けない光景である。

この「赤字」には共通の原因がある。財政危機や高齢化などで政府が市民に重い負担を求めなければならなくなっていることだ。

欧州の国々で見られる展開はこんな具合だ。

増税社会保障改革など痛みをともなう政策に政権党が行き詰まる。選挙で楽観的な公約を掲げた主要野党に政権が交代する。しかし、そこも公約を果たせない。問題の解決をもたらせない選挙は、気にいらない政党や政治家に「ノー」を突きつけて留飲を下げる政治イベントへの色合いを帯びる。スカッとするような主張を掲げる新しい政党や政治家に注目が集まる。その人気に主要政党が浮足立ち、自らもポピュリスト的で単純な主張に傾く――。

自民党から民主党への政権交代を経て新党の乱立。大震災や原発事故という重い課題も背負うことになった日本の政治もまた、この悪循環から免れているようには見えない。

では、富より負担を分配しなければならないとき、選挙で民意を問う代表制民主主義という仕組みはどうすればうまく機能するか。

留飲の下がる主張に引きずられないことが肝要かもしれない。

たとえば世界でも突出した高齢化社会で、途方もない額の借金を抱える日本に、「増税しない」という選択肢はほんとうに可能なのか。

経済が急速に拡大する一方で、政治と社会が不安定な隣国と「毅然(きぜん)とした姿勢」を前面に押し出して渡り合うことで関係が正常化できるのか。

足元の違憲状態さえ解消できない政治家らが唱える「自主憲法制定」や「憲法改正」を閉塞(へいそく)感打破の切り札と信じていいだろうか。

答えが簡単には出ない時代、むしろ正しい問いを立てている政治家や政党にこそ目を向けなければならない。われわれメディアも正しい問いを見分けられるかどうか、眼力が問われる。