だからこそ、姿勢や呼吸、食事など、すべて日常における人の「在り方」は、その人の思考の広がりや深さを制約している。
「知ること(knowing)」に先立ち、まず自らの「在り方(being)」を律していくこと。
「型」や「稽古」あるいは「修行」といった言葉の裏には、このような知恵が働いている。
「姿勢や呼吸や食事」は自分たちの「思考の広がりや深さを制約している」。
日常の所作が、つまりは「自分そのものに現れている」ということだ。
ガサツなやつは人間もガサツだ、とか。(そうとばかりも言えませんが)
逆に、日常のどんな些(さ)細(さい)な行為も、それを自らの「在り方」と向き合うチャンスととらえれば「精進」になる。
beingがknowingを制約している。
だとしたら、そうした精進は遠回りなようで、実は知に至る確かな道なのである。
行動を変えれば人間が変わる、問いう格言があるけれどさもありなん。
逆に言えば、行動が変わらないのに何を声高に主張しても、一向にリアリティはない。
精進精進。
行動あるのみ。
精進 森田真生
先日、広島市内にある「普門寺」という曹洞宗のお寺で、午前中に精進料理の作法を学び、午後に数学を学ぶというちょっと変わったイベントがあった。精進料理の作法を指導してくださったのは、食の実践を通して道元禅師の教えを読み解くユニークな活動をされている普門寺副住職の吉村昇洋さんだ。精進料理と数学がどう繋(つな)がるのかと疑問に思われるかもしれないが、はじめて吉村さんの指導で精進料理の作法を学んだときに、「丁寧に食べる」という習慣をつくることが、そのまま「丁寧に考える」ことに直結するのだと気づいて腑(ふ)に落ちた。
かつて私は精進料理といえば「動物由来の食材を使わない」という程度の認識だった。精進料理の本質が、むしろ食事に対する姿勢や作法そのものにあることを教えてくれたのが吉村さんだ。
守るべき作法の一つ一つはシンプルである。食事中にしゃべらない。箸や器を両手で扱う。口に食べ物を入れている間は、手を膝の上に置く。こうした作法を守っていると、自然と食事中の意識は「いま、ここ」に集まってくる。
誰かとしゃべりながら、あるいはテレビを見ながら、普段はいかに「心ここにあらず」の状態で食事をしているか、作法に則(のっと)った食事をしてみるとあらためて気づく。
「心ここにあらず」なのは、食事のときだけではない。明日の心配や昨日の不安など、頭の中はいつも忙(せわ)しない。一つの思考を咀嚼(そしゃく)し終わる前に、また別の思考を始めてしまう。口の中で料理をごちゃ混ぜにしているのと同じように、頭の中も、無数の雑念で混乱していく。
「食べる」という行為は、あらゆる生物に共通する、原初的な活動である。この時点で身についてしまった癖は、より高度な認識活動にも影響を与える。食べるときから混乱している人が、どうして思考するときだけ整然としていられるだろうか。
目の前のことに一つ一つ丁寧に向き合う。その習慣を「食べる」という活動の段階から身につけてしまうのである。「雑念をなくす」といきなり言われても難しいが、「食べる」ことや「坐(すわ)る」ことなど、複雑な思考が始まる前の段階において、しかるべき「型」を通して行為の癖を修正していくのだ。
どれほど抽象的で高度な思考も、すべては生物としての私たちの身体に根ざしたものである。だからこそ、姿勢や呼吸、食事など、すべて日常における人の「在り方」は、その人の思考の広がりや深さを制約している。「知ること(knowing)」に先立ち、まず自らの「在り方(being)」を律していくこと。「型」や「稽古」あるいは「修行」といった言葉の裏には、このような知恵が働いている。
いまやコンビニに出かければ出来合いの食事が簡単に手に入ってしまう時代だ。食材の調達も、調理も、後片付けも人に任せて、下手をすればただ「腹を満たす」だけが食事になった。効率を求めるあまり、人が自分の「在り方」と向き合う時間は削られていく。逆に、日常のどんな些(さ)細(さい)な行為も、それを自らの「在り方」と向き合うチャンスととらえれば「精進」になる。
beingがknowingを制約している。だとしたら、そうした精進は遠回りなようで、実は知に至る確かな道なのである。
(独立研究者)