一流企業でキャリアアップを狙うのか。それとも起業を考えるのか。中小企業ではそのトップを狙うのか。
面白いこと。ユニークなこと。望まれていること。そんなことを掛け値なく発想できる人に、これからのビジネスチャンスはあるのに違いない。
進化続ける「働きたい会社」
一流企業でキャリアアップを狙うのか。それとも起業を考えるのか。中小企業ではそのトップを狙うのか。
面白いこと。ユニークなこと。望まれていること。そんなことを掛け値なく発想できる人に、これからのビジネスチャンスはあるのに違いない。
よくよく考えてみれば、誰もが“普通”に対する欲を持っていると思うけど、実は誰もがけっこう簡単に“普通”から外れてしまう。
学校で友達との関係が崩れていじめにあって登校拒否になったり、病気になって長期欠席になったりとか。そういうことで普通からずれていく子っています。そこまで深刻じゃなくても、親友ができないとか、友達とけんかしたりとか。そういう悩みを抱えて生きてる子ってたくさんいると思うんです。
近いうちに「9割がた」が機械になるだろう。
今ほど人間が「自分でなければ出来ない仕事かどうか」を考える時代はなかっただろう。
*[次の世代に]平等主義の誤謬。
CO2の排出量を2割下げるとか、観光客を4000万に増やすとか。
オリンピックや万博だからとか。
世の中、結構「なんでなの?」という目標が一人歩きするものだ。
この「女性幹部の比率目標」もよくわからない。
この多様性の時代に。
もう「男か女」だけではない時代に。
仕事場での「男女比率」をテーマにすることは、やはり先進性があるのだろうか。
そもそも仕事場に「性別差の話」を持ち出すことがちょっと本末転倒ではないのか。
そもそも男たちはそんなに「女性の台頭」を妨げてきたのだろうか。
今でも見た目「ガツガツ」しているのは男が多いと思うが、本来の能力差はそれほどないのではないか。
(だとしたら今の社会の構図は、割合自然な構成なのではないだろうか)
ウーマノミクスなどと言って「男女の比率」だけを合わせに行くのは形式主義に思えて仕方ない。
そのうち「年代の格差」とか「職業別の格差」などと言ってなんでも均質化しようとする感じがする。
ただ男女比率に差があるから、それを縮めよというのは平等を優先しすぎていると思う。
能力主義さえ標榜できれば、大きなお世話ではないだろうか。
エンジニアが1つのパソコンで起業できる時代となったため、シリコンバレーのような集積がかつてほど意味を持たなくなっている側面もある。
かつての「自由の国」は競争に明け暮れ、成長に伴い「自主規制」も出来上がり「そんなに野蛮な国」ではなくなっているのかもしれない。
「自由」だけを基本に全ての基準を運用してきたアメリカが、いよいよ「そこ」から手を引き始めるのかもしれない。
新卒の大学生や院生が、一斉に「企業回り」をするのは何かおかしい。
「大学で四年間、きっちりと教育してから」という大学側もどうか。それほどの教育ができていれば、企業の側も待つだろう。
「そういうこと」は自由に任せるのがいいだろう。
「青田買い」など見苦しい。さもしくないか。
高校生でも、企業で挑戦してみる気概があればどうぞ。
求職者と企業が、いよいよ「スクラッチ」に話をする時代が来る。どちらも「そのつもり」で準備したほうがいい。
常時記録は、つまり「常時データ」だ。
あらゆる機械や製品にセンサーが付くIoTの世界も凄いが、「あらゆる人間にレコーダがつく」というのもすごい。
で、その著者の本を見つけてバンバン購入しよう。それが恩返しというものだ。
アートを見る・知るを繰り返していると、歴史をきちんと踏まえ、文脈を読む力が磨かれます。
アートに触れると人の営みについて、大きな流れを掴めるようになるのもありがたいことです。
モネの計7人、といったところでしょうか。
とは言っても、自分の行動を思い返してみると、営業の計画の仕方とか、資料の作り方とか、商品の選び方とかはかなり感覚的だなと思う。つまり科学的でない、ということだ。(しみじみ)
営業マンはもちろん、経営分析のような分野も、世界中の企業のデータを集めて「ベンチマーク」していくことができればずい分助かるのではないかと思う。
自分の経営する会社を常にウォッチして、的確なアドバイスをもらえることはそうそうない。
まともな報道機関が視聴者数を4倍に増やしたとしても、ポピュリズムの隆盛は抑えられなかっただろう。西側の民主主義国が抱える問題は、国民が事実と虚構を混同することではない。事実を知らされても、非常に客観的で説得力のある議論を聞いても、なお考え方を変えない有権者が非常に多くいることだ。
社会人の自分、親の自分、業界にいる自分、税金を払う自分、買い物をする自分、老後の自分、
我々が偽情報にとらわれるのは、眼前のより厳しい現実から目を背けるためかもしれない。
"一回会って2時間だけ話して別れる"のでは埋まらない溝がある。もう少し時間が欲しいのだ。
自分は介護の相談などを受けていて、つくづく「知識の習得」よりも「シェア」が有効だと感じている。
こうした経験のシェアを、それこそ人工知能が部品化し、パターン化すれば非常に介護のノウハウとして活用できる予感がする。
たまたま気のあった経営者仲間と、たまたま居酒屋に入って、たまたまそこで得られた知見、というやつをもう少し効率良くフォローするような、コンピュータと人のコラボができれば。
この(AIという)用語があまりにも広く使われているため、VCの投資家は本物のAI事業と「いわゆるAI」事業の見極めが困難になっている。
どれも「プログラムの塊」でしかない。
ただし、自分自身のプログラムを書き換えたり、まったく新しいロジックを組み立てたりするところまで「自動化」されてしまうと、そこから先は元の開発者の制御がきかない。プログラムロジックが無数に実行され、互いの実行結果が「人の判断なしに相関し合い」まったく元の開発者の知らないロジックを作り出すのがAIの正体なのだろう。
みんなが「上達」をどこか夢見て師匠に習い、練習に励む。
ぼくの一番好きな落語の演目は『寝床』である。
ミュージシャンのライブで時に「神が降りてきた」という表現があるがあれだ。落語にも間違いなくあると思う。(他の芸事も多分そうだと思う)