藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ネクストSDGs

*[ウェブ進化論]めざすは夢の国。

最近、ものごとを何かにつけ「新しいか旧式か」で考えてしまうのだけれど、その「旧式の最たるもの」に"権利"があるのではないか、と思っている。

権利とは

権利(けんり)とは、一般に、ある行為をなし、あるいはしないことのできる資格[要出典]。」 

ということでこの「資格」というやつが妙に引っかかる。

なんだか「旧式の匂い」がしませんか。

"特許権"とか。

 

「私には自由に振る舞う権利がある」というのはごもっとも。

けどそれを「あえて主張しなくていいのが最善手」ではないだろうか。

 この「主張」が摩擦を生む。

その点日本は先進的。

大昔から「和を以て」の国である。

ちょっとだけ誇らしくないですか。

 

今の集団生価値の中で「なんの権利も主張しない」というのでは生きにくい部分がいっぱいあると思うけれど、

時代は「権利を主張して相手に勝つ」という旧式ではなく、「なんとか争わない方向を模索する」ということだと思う。

 

特許は今のビジネスには必須だし、なければ却って争いを生むだろうし、特許法にも「産業の発展に資する」と書いてあるから、一見正しい物のように見えますまが。

 

実はこの「産業の発展」というテーマも旧式に見えませんか。

「権利の主張がいらない、夢の国を目指す」が次のSDGsの目標になればいい。

 

シニアソーシング

*[次の世代に]ここでも一周回って。

人材紹介の仕事をしていると、必然的に多くの人に会うことになる。

特に四十台後半以降のシニアになると、もうその人の生き様が表に出てくるというか、実にいろんな人がいると感心してしまう。

 

歳をとっても新しいことにチャレンジしたい、とか

若いひとと働きたい、とか

現場にいたい、という人は仕事がとても決まりやすいのだ。

とはいえ。

日本ではシニア枠の幅はとても狭い。

狭すぎると思う。

経験も人柄も抜群の人が「六十を超えると働けない日本」は全然改良されていない。

終身雇用の余波(というかまだ波ですね)は全く収まっていないと思う。

 そしてそうしたシニアたちは、雇用形態にも寛容で、社員でもアルバイトでもテレワークでも柔軟に考える。

働き方改革が一番進んでいるのは彼たちではないだろうか。

 

テレワークがIT業界などでも主流になり、そのうちクラウドの"向こう側の

開発者が何歳か"なんて関係なくなる時代が来るだろう。

そうしたら地道に努力をしてきた人は、ずっとずっと長く働ける。

 

そんなサービスを考えています。 

変わる構図

*[ウェブ進化論]届く時代に。

"レベゼン地球"というグループがあることはもちろん知らなかったが、結構売れているらしいこのグループが元の株主と揉めているというが、それはともかく。

元グループのリーダーという人が「ことの顛末」をyoutubeに上げている。

画像もうまい具合に編集されて、まるで公開法廷のようだ。


www.youtube.com

誰もが発信できる時代は、今まで聞こえなかった相対的に「弱者」と言われていた人の声を網羅できる。

そういう意味でこれまでは「届かぬ時代」だったのだ。

情報の強者であるマスコミと"それ以外"。

ネットの広告費がラテを超えたとか聞くが、「マスコミとそれ以外」という構図の変化は、こんなところでも顕(あらわ)である。

 

これまでもそうした「弱者の声」がスクープされることはあったけれど、それは「権力の中での出来事」で、決して網羅的に平等なものではなかったと思う。

この度は、スマホで動画さえ撮れれば平等だ。

これまで"情報の格差で立場を保ってきた権力者"たちは、もうそんなに長くないだろう。

「弱気もの」の声を聞こえぬふりをしてやり過ごす、というこれまでの権力サイドの"超古典的"な手法が通じなくなる。

手始めは政治家だろう。

 

ネットが政治を変える可能性はyoutubeにあるのではないだろうか。

自由が不安

*[ウェブ進化論]これからが一番。

自分が大学生になったころにパソコン通信が始まり、社会人になってインターネットが登場してスマホが行き渡るまでーを間近で見ていた。

いや呆然と眺めていた。(嘆)

それにしても「あらゆるものがネットに移行する」と言われてからも、すでに10年以上が経つけれど、ようやくそのことが肌身に感じるようになった。

典型的な"茹でガエル"だけれど、多分「本当の進化はこれから始まる」は

これからも続く。

しかもコロナの影響で「これからの方が速い」のじゃないだろうか。

で。

だとするとまだ「これから」を考えるのは遅くない。

しかも時代はSDGsブーム。

「技術×エコ×幸せ」の時代といった感じだ。

こんな風な変化の時代は、今までにはなかっただろう。

戦後の「復興一本道」とは正反対の時代は、そう思えば断然今の方が魅力的でワクワクしないだろうか。

 

 

vucaの時代と言われている。

不安の大きさだけ、可能性があるんだ、と思う。 

 

 

 

 

 

*[ベストバイ]ブラインド・テイスト。 

 ビールど真ん中のおいしさ、とはよく言った。

自分は酒が好きでワインなどをよく飲んでいるが、実は自分がそれほど味がわかるではないということを知っている。(嘆)

何人かの料理人と話していると、つくづく舌の繊細さの違いを感じてしまう。

素材の良さを引き出す上品な料理を前にして、マヨポンで食べたい、とか言えない言えない。

 

これまで糖質ゼロの商品はいろいろ試してみたけれど完璧!と言える商品はなかなかない。

人の感覚はどうしてこんなに鋭いのか、と思うくらいに無糖の製品は美味しくないことが多い。

今回のビールもお試しのつもりで買ってみたけど、おおお。

お店で出されて、無糖と知らされなければ、分からないレベル。

パーフェクトとよく言った。

自分の舌のレベルはここら辺りらしい。

リセットチャンス

*[次の世代に]ピンチを有利に。

コロナの影響で、テレワークを初め色んな生活のリズムが変わった人は多いだろう。

さらに仕事が減ったり無くなったりした、という話を耳にするようになって久しい。

いま大事なのは「リズムの立て直し」なのではないだろうか。

  それまでは、まあ「惰性に近い習慣」で自宅からオフィスに通い、アフターファイブや休日を過ごしていたことに「ことごとく"疑問符"が投げかけられた」のはいい機会とも言える。

仕事や人間関係や、自分のプライベートの時間についても。

コロナがなければ、定年まで平坦に過ごしていたかもしれないが、その後に長いリタイヤ人生を考えなきゃならないのが今の時代だ。

 

ただ70歳までなんとか再雇用で働く、という人は多いけれど、本当はもっと経験が生きる場所はあると思う。

コロナを機に「正規非正規」「定年後」の既成概念が取り払われて、もっとオープンな議論になるといい。

 

いいかげん組織が硬直している日本の企業にとっても、今までの制度をリセットするためのいい機会なのではないだろうか。

 

こういった機会を素早く捉えて、機敏に動くのが経営者の役割だと思う。

ピンチにチャンスあり、というフレーズはこんな時のことではないだろうか。

 

 

 

自分で描く

*[次の世代に]老後を作る。

福祉業界にいると「医師から余命宣告をされて生き方が変わった」という話を聞くことがある。

つまり「終わりを意識した」から生きることについての姿勢が変わった、という話だ。

一方そうした高齢でない人たちには、そうした機会がない。

況や若い人などは、時間が無限にあるかのように過ごしている(ように見える。自分もかつてそうだった)。

つまり「終わりに対する意識の差」ということだ。

ところが若い人と高齢者の間には、そんなに差があるものではない。

90歳くらいで、誰もが臨終する。

高齢者は「それ」を間近に感じているので、何事にもシリアスな感覚でいられるのだ。

そして若者にはそうしたリアリティはない。

 

けれど、だからここで先回りをしてみたい。

具体的には、若い人が高齢者の施設を見学してみるといいと思う。 

 百聞は一見にしかず。

なぜ「健康でいる」ということが大事なのか。

誰もが発症する認知症というものは、具体的にはどんなものか。

 そして自分が高齢者になった時に自分は何をしたいのだろうか。

 

もう「人間50年」の時代ではないからこそ、長生きした時の自分がどのように生きていくのか、ということ選ぶやってきている。

 

それで、先回りして「どれだけ楽しく最後を過ごすか」をプランするのも自分の仕事だ。

老後は老後で楽しい方がいい。

苦労を超えて

*[次の世代に]予知能力。

20代や30代には思いもしなかったことだが。

50代になって「新しいこと」をしようとすると、ある感覚がよぎる。

"付き合う重さ"とでも言った感じだ。 

 これは多分歳をとって保守的になったとか、体力が衰えたとかいうことだけが原因ではない。

 

新しいことを「してみた様子」がなんとなく分かるのだ。

そして例えば「新しい出会い」をすることで、そのためにかかるだろうコミュニケーションの苦労とか、お互い理解したり、理解されたり、という「一連の苦労が、なんとなく感じられてしまう」。

 

ともかく、どんどん出会いを増やして「数を頼んで何かを得る」というというやり方は若い人たちのやり方である。

新しい人にはどんどん会うが、付き合う人は厳選する、という感じだろうか。 

 まったく新しい異分野の仕事に、魅力を感じないわけではないがその反面、その新しいことに「どれほどの情熱が必要か」がなんとなく、事前に感じられてしまうから。

 

そういえば七十を超えて、なお元気な先輩の恋愛観とどこか似ている。

「重さ」が勝つようになったら、いよいよリタイアの兆候だということかもしれない。

 

若い人と話をするのは面白いが、まあまあ大変だ。

 

 

瞬発

*[次の世代に]いざと日常の使い分け。

維持する時と伸ばすとき。

仕事のスキルでも習い事でもだけれど。

毎日ルーティーンでしなければならない動作は「維持のために必要なもの」だろう。

筋力とか勘を鈍らせないために必要な練習メニューだ。

 

一方「大幅に伸ばすための練習」というのもある。

これは、今の技量の維持ではなく「さらなる高み」へ自分を導くためのものだ。

当然内容はキツい。

限界に挑むようなメニューもあるだろう。

 

つまり「今の自分の維持のための練習」と「さらに上に行くための練習」があるということだ。

けれどそれを続けると、未知の自分へと進んでいける。

そのためなら、相当辛くても「いっちょやりましょう」という気になれるだろう。

練習とかお稽古とか、とかく苦しいルーティンがあるけれど「よし、さらに上を目指すぞ」という気合いで臨めば、特別な心構えになる。

 

「維持のため」と「伸びるため」を使い分けて、自分に気合を入れましょう。

 

過去方式の清算。

 

*[次の世代に]オリンピックという方法。

開催しないと利権を失う、という理由で大会委員会やメディアや政治家などの「色んな力」が錯綜しているらしい。
もはや「何があろうと開催が目的」な大人たちの様子は、まるで妖怪が踊っているように見える。

妖怪に憑依された彼らは、もはや正気で「なんのために開催するのか」とか「そもそものスポーツとは何か」なんて考える力はない。

何せ「取り憑かれている」のだから。

彼らのような「利権のリーダー」というのは、元来こうした"憑き物"にとりつかれやすいものだ。

まさに妖怪。

古今東西、こうした「権力」とか「利権」とか「地位」とかに取り憑かれた人たちは数多い。

今の政治家にもそうした人は沢山いると思うが、物語の結論としては取り憑かれた人が最後は「非業の最期」を迎えて終わるパターンが常である。

 

そして思う。

紀元前1896年iに始まったという「(近代)オリンピックという方法」から数えて今年で125年。

いよいよ「競技の種目を決め、ルールに則りアスリートが勝敗を競う」というスタイルが終わるのではないだろうか。

 ルールを決めて、「勝ち負けや記録を競う」というのは必ず「勝者とそれ以外」を生み出す。

多様性とかSDGsがこれからの概念になろうとする中、オリンピックはなぜかちょっと「古びた様式」にも思えてしまう。

今のゴタゴタは、"大人たちの妖怪戦争"に見えるが、実は「次の世界への過渡期の出来事」なのかもしれない。

 

「他人との競争」が目的ではなくなる時代が来るのでしょう。

 

 

熟練の戦い

*[次の世代に]防衛の知恵。

昨日は「失敗するほどの挑戦を」という話を書いた。

年寄りにせよ、若者にせよ「失敗しないで縮こまっている」のが一番もったいない。

バンバン失敗しましょう。

というのと反対の話。

 

失敗するときというのは、準備が足りないとか油断しているとかいうことが多い。

つまりどんどんチャレンジしてるので、色々と事前に考えを巡らせることができていないのだ。

そりゃそうだ。

「熟考するのか飛びこむのか」と言われたら、間違いなく飛びこむ。

(いやこれで何回痛い目にあってるのに)

それで数多く失敗もするわけだが、けれど実は「失敗のパターン」はそれほど多いわけではない、ということにも気づく。

 知らない世界のことをどんどんやってみて、どんどん失敗するわけですが。

例えばその"失敗の原因"は「人のこと、お金のこと、営業のこと、製品のこと」くらいにあるものだ。

製品の品質が思い通りにいかない、とか販路の開拓がうまくいかない、とか。

そもそも製品のコンセプトがブレていた、なんてのもよくある話だ。

だからなんなのと。

失敗のパターンは結構似通っているので、「ヤバイな」と思ったらそんなことを即座にチェックしてみるといい。 

失敗は闇夜のジャングルで不意に起こるのではない。

 

例えば 「製品のターゲット層がずれていた」ということが分かれば、もう一度企画のし直しだ。

結局はこうした「試行錯誤の繰り返し」が成功への道なのだと思う。

どんどん試して、どんどん失敗する。

 そして誰も知らない「正解」を自分で作り出すのが醍醐味だ。

 

失敗は向こう傷。

襟につける勲章のようなものなのだ。

 

あえて行く場所

*[次の世代に]進んでコケること。

自分たちは意識して失敗を避ける。

そりゃそうだ。

「わざわざ失敗しに行く」という人は八百長でもない限りいないだろう。

では「失敗はしないほうがいいのか」と問うと、まったく違う。

失敗はした方がいいのだ。

「 失敗はしたくないが、失敗はした方がいい」という矛盾。

失敗を避けていると「チャレンジ」がなくなるから。

だから"失敗を恐れずにチャレンジをせよ"ということになる。

つまり「失敗するな」ではなく「あらかじめ失敗を気にするな」ということだ。 

 

そして何より「チャレンジを恐れるな」というのが核心だろう。 

チャレンジさえできていれば、結果は野となれ山となれ。

「死なない限りはかすり傷」という言葉もあるらしい。

 

たったそれだけのことを、まず聞いてもらいたい。

チャレンジしないのは、ただもったいないことなのだ。

 

失敗の数だけ勲章がある。

実はこれから

*[ウェブ進化論]後発の気分。

LINEドクターがサービス開始、なんていうニュースを聞いていると、つくづく「ビジネスのチャンスが目の前を通り過ぎてゆく」のを感じる。

90年代後半にインターネットが始まり、ブラウザが開発され、巷は「ビジネスモデル特許」がブームになり、そしてみな「もうインターネットは限界だね」とまじめに語っていた。

が。

なんと本当の進化は、それから20年も後だった。

という悲しいお話だ。

そして過去はいい。

オイオイ。これからだってそうなんじゃないのか?

 という素朴な疑問だ。

i-Phoneが出てまだ13年だという。

本当の"エラいこと"は、実はまだこれからなんじゃありませんか?

とおじさんは問いたい。

 ネットが浸透しきって、そしてこれから本当に「新しいコンテンツの世界」が始まるのだとしたら、まだ自分たちは今からやれることがあるはずだ。

 

youtuberになるとかではなく。

まだまだ今、足りていない問題が"ネット"で解決できるのではないか。

 そんな風に考えると、実は今も「チャンスのただ中」にいるような気分にもなってくる。

本当の進化はこれから始まる。

歴史的転換

*[ウェブ進化論]これからが目覚め。

リモートワークが進んだというが、それでも大手で五割程度、日本の圧倒的多数を占める中小企業では一,二割らしい。

さて都心のオフィスはどうなるだろうか。

自分の予想では「ずるずる」と賃料が下がり始めるのは2年くらい先だと思う。

それはまだ「都心に集まること」について、みんなが幻想を捨てていないから。

 

これが本当に「全部とは言わないけど、2/3くらいは必要ないよね」ということになってから本格的に下落が始まると思っている。

過熱していた「都心」の価値が見直され、けれど「価値がない」わけではないかな、と。

 

まあ投資熱みたいなもので、誰もが「価格が上がるから都心に家を」という思い込みが、適度に冷える局面だろう。

むやみに人が集まるから、そこでは何か「新しいこと」が無限に始まり、永遠に価値が上がってゆく、という化学反応的な幻覚は、普通に戻るべきだと思う。

 

先進国が常々拠り所にいう「成長指向」がようやく問い直される機会なら、今風なトレンドだ。

それにしても、90年代バブルの時もそうだったが、「その時々の人たちがいう的」を集団で追いかけては躓く、ということを自分たちは歴史的に繰り返している。

こうした「愚かな繰り返し」が、もし今回収束に向かっているのだとしたら、コロナの影響は歴史的な転換点だとして語られるような気がする。

 

それほどのことがないと、自分たちの「熱狂」は自分たちでは気づかないものなのだ。

そして、それに気づけたのもコロナの効用に違いない。

ネットの上で

*[ウェブ進化論]次世代飲食業。

ここのところ「お店」とか「オフィス」が必要なくなったら…ということを想像している。

カフェとか買い物、などは簡単にwebで事足りることになるだろう。

そこで残ってくるのがいわゆる「食べ物屋」だ。

チェーン店から居酒屋、小料理屋に洋食屋、高級店もある。

さて彼たちの業態はずっと安泰かどうか。

 

チェーン店の食材は、すでに家庭の冷凍庫でも保存ができるだろう。

デリバリーさえできれば、すぐにでも店舗は必要なくなる。

居酒屋や小料理屋さんも、工夫次第では「自宅で食べ飲み」ができると思う。

これも食材のデリバリー網が解決できるだろう。

 

仕事帰りに、ふらっと最寄えきの赤提灯で一杯、というのは風情があったものだが、なにそれ、"自宅に帰ってからデリバリーされた食材で一杯"でも十分だ。

店主との会話はネットで。

しかも安い。

こう考えると、大抵の飲み屋さんも2/3くらいはwebが取って代わるではないだろうか。

お店の側も、コストが1/3になり、経営が楽になる。

するとつまりは「絶対にその場所で食べないと味が保てない料理や食材」しか残らない。

 

三ツ星のお店や、冷蔵できない食材などだけが「お店でいただく」というターゲットになるだろう。

とはいえ、居酒屋が消滅することはないと思うが、スペースコストは減る方向に間違いなく向かうと思う。

「繁華街でフリーの客を迎える」という業態が縮小し、「予約して安く食べ飲みする」というトレンドになるだろう。

 さて。

これからの飲食店はテクノロジーの力を借りて、面白いことになりそうだ。