藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

クビキの解放

*[ウェブ進化論]便利の濁流。

コロナ後がどうなるか、という視点よりも

「集まることが当たり前」で無くなったらどうなるか?

ということがとても気になっている。

カップルや 家族だって、狭い家で始終顔を合わせているとギスギスしてくるものだが、これからは「会いたいとき」にだけ集まればよくなる。

人間関係は改善されるのではないだろうか。

「会わねばならない」というのはある意味苦痛だ。

「会いたい時に、いつでも会える」というのとは"表と裏"くらいに印象が違うだろう。

 

学生時代の友達には、久しぶりにリアルで会いたい。

「その気持ち」対「今すぐネットで話せる」は、リアルの力がいつまで続くだろうか。

オフィスとか、映画館とか、イベントとか、混沌とした今は「やはりリアルで」という声がまだ勝っていると思うけれど、果たしてこういう傾向はいつまで続くでしょうか。

自分は4k/8k、とか5G/6Gの時代には、こうした価値観はひっくり返っていると思う。

 

「店を構える」という伝統的な商売のやり方が変わるとしたら。

それも段々と、だが速やかに変わるのだとしたら「そういう時代」に備えが必要だ。

 

今カフェや居酒屋で求められているようなことが、これからはネット上で人気が出るかもしれない。

しかもネットには家賃がない。

街中は家賃が高くて借りれなかったジャズ喫茶が、ネット上には林立するかもしれない。

 街中ではできなかったライブ演奏は、ネット上のライブハウスで。

演奏者も視聴者も桁違いに増えるだろう。

リアル店舗のコンテンツ」について、将来を考えるいい機会になりそうだ。 

 "「家賃の制約」がなくなった世界"の、広がりがめちゃくちゃ楽しみだ。

革命前夜

*[ウェブ進化論]神話の崩壊。

昨日、これからは「集まる前提のビジネス」は危ないと思う、と書いた。

例えば店舗ありきのカフェとか、小売店とかは「家賃コスト」との比較で相当縮小すると思う。

お店に行くのは「散策を楽しむ」とか「偶然のウィンドショッピング」くらいの動機しかなくなるだろう。

あえてそういう"外出体験"をどれほどの人が望み続けるだろうか。

懐かしい友人と会って話すのにも、もうターミナル駅にいく必要はないとしたら。

 5Gか6Gの通信で、自宅や出先のスマホに繋ぐだけで、すぐに実現する。

そこへ向かうときの情緒はないが、これまで技術はそういうものを常に「押し流して」きたものだ。

 

そうなると激震が走るのは、何を隠そう「不動産業」である。

何せ「神話」と言われるくらいに「場所」と「土地」の価値は不変だった。

人が多く集まる場所の、不動産の価値が下がることはなかった。

場所ありき、空間ありき、のビジネスモデルが「もし」崩れたら。

 今の不動産の「人の集積の魅力」は1/3くらいになるのではないだろうか。

 

それでも一等地の人気は残ると思うが、何せボリュームが違う。

ほとんどの業態は「技術に押し流されて」しまうだろう。

長く続いた「不動産業界の構造」をコロナが変えてしまうとしたら、何か運命的な感じがする。

 

コロナ+技術が本当のイノベーションを起こすのではないだろうか。

店舗淘汰

*[次の世代に]集まりの衰退。

昨日「お一人さまのサービス」について書いたけれど、コロナの影響もあり、これから"お一人さま"はますます加速するのではないだろうか。

焼肉は二人以上で参加するのがノーマルだったが、そうでもなくなり。

それまでは「グループで参加するのが普通」だったものがすべてお一人様仕様になってゆく。 

 例えば映画。

映画館のスクリーンでロードショウ、というのはこれまで疑いがなかったが、VRのゴーグルが普及すればたちどころに必要なくなるのではないか。

第一「開演時間の拘束」がなくなるのだ。

友達と待ち合わせしたり、上演後に語り合う風情はなくなるが、便利なことこの上ない。

結果的に興業の成績も伸びるだろう。

むしろもういつでも見られるのだから、映画人口そのものの底上げにも貢献するはずだ。

 

ビジネスの世界では「集まる前提」が崩れて会議や商談はオンラインが既に主流になっている。

遊園地をVRが完全に実現するのはまだ先だろうが、「集まる前提」のビジネスモデルは崩壊する可能性があると思う。

「お店」がそれほど必要なくなるのだ。

 今のところ残れるのは飲食店くらいではないだろうか。

普通のカフェは必要なくなると思う。

出来立ての料理をその場で提供する、ということの代替はまだないけれど、その他の業態は要注意だろう。

 

"お店ありき"が常識でなくなる時代は、もうすぐなのではないだろうか。

 

 

 

個サービス

*[次の世代に]お一人さまの加速。

先日初めて「ひとり焼肉」のお店を訪問。

その新業態に驚いたのが、まず来店客の多いこと。

自分も焼肉屋さんには一人では入りにくさを感じていたが、なぜこれまでなかったのかと思うほどの人気ぶり。

しかも女性も多い。

若者も多い。

そしておじさんはとても多い。

オーダーはタブレットでフルオートだし、食材が出てくるのも実に早い。

追加のオーダーも何度でも。

一人で食べてみてその快適さに驚いた。

一人飲みならぬ「ひとり焼き」そして「ひとり鍋」。

「ひとり中華」とか「ひとりイタリアン、フレンチ」なんかもこれからのトレンドではないだろうか。

 

コロナのせいもあって、"何でもおひとり様"が加速しているようだ。

店内にいて「ITがお一人さまサービス」の起爆剤になるだろうということも予感した。

若い店員さんはただ「お片付け」のためにだけ存在していた。

芸術の根

*[ウェブ進化論]広がる世界。

アートにエールをという東京都が始めたプロジェクト。

行政もたまにはいいことをする。


www.youtube.com

コロナ禍で閉じこもる一般人と、これまた表現の場を制限されているアーティストのためのイベントらしい。

ジャンルも音楽、演劇、映像などなど色々ある。

そして「芸術家の裾野」はこんなに広かったのかと驚く。

それぞれはBGMではなく「じっと鑑賞したい」作品が多い。

 

これも思わぬコロナの産物だが、せっかく出てきたこういう試みを「その次」に是非つなげて欲しいところだ。

 自分はyoutubeの"オススメ"で知ったが、こうした「ディレクションされたコンテンツ」と、何でもありのyoutubeが交錯してくると、充実した「パーチャル・ライブハウス」とか「バーチャル美術館」ができていくようでとても楽しい。

リアル世界では実現しなかったことが、ここでもまた一つ。

元気の出るプロジェクトだ。

おかげさん

*[次の世代に]思考の魔法。

「私が恵まれていたのは…」

大してそうは思っていなくてもいい。

あえてその枕詞をつけて話してみる。

「私が恵まれていたのは、ごく中流の家庭に育ちまして」とか

「私が恵まれていたのは、すごく校則の厳しい男子校に入りまして」とか

「私が恵まれていたのは、まったく運動ができなくて」とか

何でもこの文脈に入れてしまう。

ほら「生まれつき体が弱かったおかげで…」で始まる偉人の話はよく聞く物語だ。

 

この方法を使うと、相当な不幸や挫折も、瞬間で「よかったこと」に変わる。

というか「これからいいこと」に導けるのだ。

 

 そうやって思考をねじ曲げてでも、過去を肥やしにしてしまう。

虫垂炎になったおかげで、普段は見られない老人病棟のリアルを見ることができました」というのは自分の実話だ。

三菱商事に入れなかったおかげで起業しました」というのも本当だ。

何がすごいってすべてが逆転のネタになる。

人間万事塞翁が馬ってすごい故事成語だ。

何でもポジティブ。

 

コロナ禍のおかけで…と言ってみて、これからを考えましょうや。

分水嶺

*[次の世代に]ドタバタしようや。

何か新しいことをやり始めて「こんなはずじゃ」と思ったことはないだろうか。

何か勢いで始めてしまったけれど(でもこれはとても大事)、「もし最初に分かっていたらやっていない」ようなことだ。

それがなにって。

ようやく歳を重ねて分かってきたのですよ。

"そういうこと"が。

自分は特に"面白そう!"と思ったら飛びこむタイプで、水浸しになってから"アレッ!?"ということが多い。

たぶん聡明で、事前に頭が切れる人なら考えて躊躇してしまうようなことだ。

昨年くらいまでは、まったくそんなだった。

それが少し変わった。

「事前に見当がつく」感じになってきたのだ。

このサービスを始めたら営業に苦労するだろうな…とか。

この商品を仕入れたら、相当使い方を勉強しないとダメだな…とか。

こんな趣味を始めたらお金と時間がすごくかかるだろうなぁ、とか。 

 

歳を取ると「そういうこと」が分かるので、だんだんみな億劫になってくるのだ。

体力が衰えるからばかりではないと思う。

「事前に見えてしまう」から、あえてそれを乗り越えて行こうと思わない。

いい意味で「打算」がはたらく。

それはそれで賢いことだ。

で、「老人」になるかどうかの分かれ目は、そこで「まあそれでもやるか」と思えるかどうかだろう。

「挑戦してみてドタバタすること」に興味を持てるか。

それとも泰然として見送るか。

 アクティブな高齢者は、だから老人ではないのだ。

本当の備え

*[次の世代に]平時にできること。

先日「ポジティヴさを忘れるな」というような話を書いたけれど、思い返してみるとそうでもない。

そんなことを言えるのは「切羽詰まっていない時」の話だと思う。

つまり一旦"窮地"に陥ってしまうと、到底楽観的なことなど考えられないのが人間だ。

 三国志の武将でもあるまいし、自分の城が燃え上がるのを見ながら「またの機会を待とう」とか言ってられる人はいないだろう。

 

だから、だから。

そんな事態になる前に「窮地の想像をしておこう」という話なのだ。

 切羽詰まってしまえば、まあそこで考えるしかない。

そこから取れる作戦は、そう多くないだろうと思う。

 

「今、まだ最悪でないうちに「最悪のこと」を予想しておこう」というのが大事な話なのだ。

 自分の仕事とか進路とかを「まだ色々考えられるうち」に考えておくこと。

一旦"緊急事態"になっちまったらそれどころではないから。

 

つまり「心の避難訓練」のようなものだ。

身近に火の手が上がっても、ある程度冷静に動けるような訓練が必要なのだ。

最近は自然災害とかコロナとか、想定外の出来事が多いけれど、こうした「心理的な訓練」はとても大事な準備だと思う。

 

「切羽詰まったときのことを、そうなる前にちゃんと考える」 というのは災害だけでなく、どんな場面でも有効な考え方ではないだろうか。

 

時代から学べることを見落とさないようにしたい。

 

谷間の花

*[次の世代に]日本の聖地。

f:id:why-newton:20210502223536p:plain

改めて見るドラえもん

小学生から「小学館」という雑誌で親しんできたドラえもん

それが今読み返してみると、小学生どころではない「示唆」に富んでいるの驚く。

おそらくこの"ドラえもん"だけで大学の研究テーマにしている先生もいると思うが、それにしても作家の藤子不二雄氏は、どんな思いでこの漫画を育んでいかれたのだろうか。

大人にとって示唆的であり、また社会への皮肉もあり、生活する上でのしがらみもあり、それがのび太のいる「町内だけの話」と「宇宙や時空を超えた話」として交錯する。

 

ハリウッドも真っ青な作品観ではないだろうか。

自分の幼いころは毎週の「面白い漫画」だったけれど、今見てみてるとそれだけではない。

ジャイアン」とは今の社会では何に当たるのだろうか。

タイムマシンや、数々の発明品は、果たして「自分たちの何を満たすためのもの」だったのだろうか。

 

そんな風に大人が十分考えさせられるのは、日本の漫画の「懐の深さ」ではないかと思う。

「いろんな描き手が自由に参入し、どんどん表現する世界 」が、何と日本の漫画界にはそっくり残されているのだ。

ここだけは「規制とか大手の力学」に支配されて欲しくないと思う。

 

その意味で、日本の漫画は世界の聖地なのではないだろうか。

熱狂の成立

*[次の世代に]作家の格闘技。

f:id:why-newton:20210502221316p:plain

漫画の教え

漫画は日本の突出した文化だというが、それは何故だろうか。

おそらくは、"一コマ一コマ"をまるで命を削るように「一点ものの作品」のように書かれ、それが何百コマも集まって"一話"になる…

そんな「儚さ」が漫画の魅力なのではないだろうか。

どの漫画もその「一コマ」を切り取って、それで作品として鑑賞に耐えうるものばかりである。

それが一度に何十ページにもわたって提供される。

味わってじっくり鑑賞しようが、さらっと読み飛ばそうが、全く読者の自由だ。

作者の凄まじい努力と、それを読む読者の自由。 

これが日本の漫画の力なのではないだろうか。

美術館の中を、まるで日常のように通り過ぎる。

そして目に止まった「ほんの少し」の作品について反応する。

 

"漫画の凄み"はその圧倒的な「作画の力」を、読み手には何ら強制はせず、

「大量のエネルギーを放ち続ける」ところにあるのではないだろうか。

これだけの作品群を「いくらでも飛ばし読みする読者」と、

またそれを構わず「新しい作品をどんどん描いていく作家」がいる関係は、何より「表現者の格闘場」なのだと思う。

 

そんな漫画というマーケット、が日本にあることがすごいと思う。

作家とユーザーが、全く五分に交流できる場があることで独特の世界が出来上がったのではないだろうか。

 

漫画の市場は、まだまだ衰えずに伸びていくのではないだろうか。

 

 

 

知恵の活用

*[次の世代に]これまでの老後ではなく。

確かに自分が子供だった50年前と比べて、明らかに「老後」についての高齢者の感覚は変わってきている。

これからはもっと寿命が伸びて、さらに「老後に何するものぞ」というテーマは注目を集めていくだろう。

それはともかく。

 

高齢者の集う施設を見て思うのは「需要と供給のミスマッチ」だ。

もっと言うと、企業が自社の「65歳定年を迎えてまだまだ働ける人たち」への「お荷物的」な傾向である。

 

経歴を聞いていると「非常に得難い貴重な職務経験」を、そのまま企業は水に流しているように見える。

そしてそうしたシニアに注目するのは、二十代の若手の企業家。

これは、時代が「一周回った」と言うことだろうか。

 

これから団塊の世代がこれから大量に老いる中「スキルのあるシニア」が否応なく注目される波が来るだろう。

そして、企業はその波に乗り遅れたら、貴重な「成長の原動力」を失うことになると思う。

「経験値の高いリタイヤ世代を進んで利用する」という視点のない経営者は、大きな機会損失を出すだろう。

 

大量にそうしたシニアが出てくるこの10年が、日本のメーカーの浮沈を分けていくのではないだろうか。

ネットの時代は「速く、軽く、すぐに」が常道だが、旧来の知恵を活かす"したたかさ"が同時に必要なのだと思う。

 

逆境を使う

*[次の世代に]

最近よく思うのだが「あえて危ない辺りに近づいてゆく」ということが大事なのではないだろうか。

何も歌舞伎町に潜入調査するという話ではない。(それもいいけど)

一般社会で働いていると、普通はどんどん「失敗しない方向」へと動いていく。

もちろん「うまくいくようにする」というのは全然悪いことではない。

むしろいいことだ。

逆に皆が皆、失敗しかしなかったら、社会は成り立たないだろう。

 

けれど、けれど。

「あえてヤバそうなところ」へ行かなかったら、果たして自分たちにその先はあるだろうか。 

「正しい方向」を常に自分たちは目指す。

普通はそうする。

 

けれど「新しいことへのチャレンジ」はそういう「正解」が見えないことが多い。

つまり「安定ばかりに身を置かないこと」というのは「未知へのチャレンジ」ということと置き換えられそうだ。

 

だからあえて「分からないもの」「まだ認められていないもの」へと近づいてゆく。

それで怪我することもある。

けれどそこにしか"次"がないことも、自分には感じることができる。

 

チャレンジは、ただ冒険心だけがさせているのではなく、「生き残りの本能」がそうさせているのではないだろうか。

て、そうはいいながら「新しい場所」へ行きたくて仕方がないのだ。

で、それが使命なのか、本能なのかはもはや区別しにくい。

 

それでいいのだ

*[次の世代に]リスク取る人、取らぬ人。

昨日「"今の自分のこれから"をどうしていくのかは自分次第」と書いた。

今の状態からエスケイプしてしまう、というのも一つだし。

さらなる修行に旅立つ自分を選んでもいい。

そうして「楽を取るか苦をとるか」という時のモチベーションは、一体なんだろうか。

 どんどんチャレンジを止めて、逃げて、楽な方に行けばいいはずではないか。

それを、そうさせないのは「結局自分のため」なのだと思う。

組織のためとか、将来のためとか、自分たちは色々理由をつけて説明したがるけれど、それは自分のためだ。

つまり「進んで火中の栗を拾う」のは自分のため、なのではないだろうか。

 これはイソップ童話が元で、猿に煽(おだ)てられた猫が栗を拾って大火傷をし、肝心の栗は猿に食べられてしまった、という戒めのお話だ。

でもそれでいいのだ。

自分は栗の実を得られなくとも、そして煽てられての酔狂でも「そういう行為にチャレンジした」という猫は、恐らくその後地域のボスにでもなったに違いない。 

 もちろん煽った猿は、一生小物のままであろう。

 

あえて家中の栗を拾い、何かを経験しにいく。 

小利口に立ち回らない、そういう"見切り"が今の時代には必要なのではないだろうか。

 

急がば回れ」は今でも不朽の名言だ。

作家として

 *[次の世代に]

今、自分を取り巻く状況はピンチかチャンスか。

そんなものチャンスに決まっている。

と自分は思っている。 

映画の話ではない。

というか映画ではよくある話だ。

 

自分が敵に囲まれて絶体絶命の時に。

「さぁ、殺れ!」というのも

「俺の話を聞いてくれ」というのも

「お前の仲間になるよ」というのも

どれもよくある話だ。(特に三国志とか)

 

だから今、自分が「かなりの逆境」にあっても、そこからの展開は自分次第だと思う。

自分は"自分の脚本家"なのだ。

だからこの後に、とても悲惨な展開を書いてもいいし、「一発逆転」のようなことを書いてもいい。

それがあまりに非現実的なら「徐々にいいことが起こる」ようなシナリオもあるし、一旦「絶体絶命」になってからその後の展開を考えてみてもいい。

大事なのは「諦めないこと」だろうか。 

 よく「人生の船長は自分自身である」という話を聞くけれど。

また「自分のシナリオは自分で描いていい」ということだ。

自分次第。

あなた次第。

 

何か呪縛の中にいて、息苦しかった感じが実はそうでもないよ、という話。

特に若い人には、「目に見えぬ呪縛は、実はない」ということを伝えたい。

 

あえて転ぶようなシナリオを書く、粋な作家もいるのですが。

 

時間の意識

*[次の世代に]自粛の効用。

今年のゴールデンウィークも過ぎてしまったが、思い返すとこれまでとは少し違う印象がした。

コロナがなかったそれまでのように「どこへ旅行しようか」「どこへ帰省しようか」という空気ではなくなった。

しかも世界的に「ともかく、はしゃぐな」

と言われた休日は戦後あまりなかったのではないだろうか。

 

そして自分たちは周囲に愚痴を言いながらも、なんとなくの連休を過ごした。

このコロナのおかげで、改めて「自分の時間の使い方」を真正面に考えることになった人は多いのではないだろうか。

 

遊びに行く、とか趣味の人たちと集まるとか、ただ飲みに行くとか。

そんな行為が丸ごとできなくなった。

休日とか夜の時間帯を「なんとなく」過ごすことがしにくい。

 これまで、なかば惰性で過ごしてきた時間を「自分の意思で」過ごす機会が今回だったのだ。

"なんとなく過ごす術"がなくなってしまったので、ようやく「自分が自分の時間の使い方」を真面目に考えることになったと思う。

 

そしてこの習慣はコロナが終わっても使えそうだ。

毎週末や平日の夜とか。

「だらだらしないで自分のやりたいことに時間を使う」ということをコロナが自分たちに知らしめた、と思うのは自分だけだろうか。

ただ時間を過ごしてしまう、というのは思えば怖いことなのだと思う。