藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

悩みの射程(1)

*[ウェブ進化論]信心の効用。

先日、「現代と戦時中の若者の時間をリアルタイムに繋ぐ」という設定の芝居を見たのだが、圧倒的に安全で便利で長寿の現代の人たちの方が、これまた「圧倒的に不安が強い」という対比が圧巻だった。

 

つまり自分たちは「悲惨な出来事があれば、それに感情を奪われて余計なことは考えられない」のに、「余裕の時間」があれば「あることないことを想像し、また他人と自分を比較したりして悲嘆にくれる」という厄介な生き物なのだ、ということを今一度客観的に理解しておいた方が良さそうだ。

 

自分の現状に満足せずの「さらなる成長を志向しての不安」ではなく、「何か他人と比べての不満」というのは解消されることはないだろう、ということは想像に難くない。

 

つまり多くの「現代人のメンタリティ」ではずっとこれからも、何某かの不安からは解放されない、ということをまず認識した方がいいだろう。

そして菩提寺の住職よろしく、あるいは聖職者の説くように「本当にありたい自分のこと」を考えなければ、永遠に餓鬼のような精神状態になってしまうと思う。

 

宗教というのはいろいろあるが、そうした精神の安寧にはうまくすると有用だと思う。

仏教の講話を聞いていると、実に安らかで安寧な気分になるものだ。

あえてそうした時間を作る、というのも現代には有効なことではないだろうか。

(つづく)

外洋は波高く

*[ウェブ進化論]迫る水深。

仕事柄、転職の市場が時代とともに、そしてその時代の景気とともに伸縮するのを肌で感じる。

AIとまで言わずともデジタル化の進歩で「かなりジワジワきていた」感じの波が、ここにきてかなり激しくなってきているのだと思う。

そしてこれまでとの違いは「いよいよ大企業もその波に飲み込まれている」ということである。

 

そして確実に言えることは「"転職限界年齢"がどんどん下がってきている」ということだ。

よほどの目立つスキルがない限り、もはや40代では転職先がない時代になっている。

プログラマーや建築現場などの「現場仕事」をするのならまだマシだが、それとて10年も保たない。

職業訓練学校に行ったくらいでは全く相手にもされていないのが現状だ

 

先日、倉庫業からの転職を考えているという22歳の若者が「事務職にでも就こうかな」と言うので「これからは他人が容易にできないこととか、必ず人から求められる仕事を選んだ方がいい」と全力で説得した。

 

今はもう「三十代で何をしているか」が分水嶺になっていると思う。

さらに40代後半の、超大手企業に勤めていた人が「最近大した仕事がないので転職したい」という相談も増えてきている。

企業の内部にいると、世間の波の激しさに気づかない、ということを彼たちは知らないのだ。

まずは「今の波の様子」をリアルに知ることから初めてはどうかと思う。

 

もちろん自分の歳(アラ還)になると雇ってくれるところなど皆無である。

発想の死角

*[ウェブ進化論]アイデアは疑え。

今までの経験上、大体世の中が「その話題一色」になっていたら、すでにその話題はもう頂点を超えて終わり始めていると思った方が良さそうだ。

AIしかり、高齢化や少子化問題しかり。

 

で何がいいたいのかというと、特に「新しいことを始めようとする時」には、そうした流行に触発されることが多いから注意すべし、ということである。

「これからはスマホの時代」と少人数の人がささやき始めたころ、まだ本気で参入している人は少なく、みな様子見だった。

それが本当に「あらゆるサービスはスマホ経由が必須だ」ということが常識になり、そこから戦国時代が始まって今に至っていることは記憶に新しい。

 

なので「これはいい」とか「このアイデアはいける」と思ったらその時点で"なんでお前はそんなことを思いついたのか?"ということを改めて自問したいと思う。

往々にして思いついたことに興奮して「おいおい、それはお前以外に多くの人が考えているよ」ということを見過ごしてしまうものだ。

 

そしてさらに、仮にそれが新しくてナイスな思いつきだったとしても「時代に会うかどうか」というシビアな問題がある。

周囲を見渡してみても、インターネットの普及が不十分だったために芽が出なかったサービスやデバイスなど、死屍累々である。

 

自分が亡骸にならないように注意せねばならない。

 

 

 

職に学ぶ(1)

*[ウェブ進化論]役者に学ぶ。

ここ数年、芝居を観にいく機会が多く、また舞台関係者の人と会う機会も増えた。

考えてみれば「俳優という職業の人」というのは、次々に仕事として「自分の体を使って違う人物や役柄を演じ」周囲のシチュエーションまで織り込んで観客に評価をもらう、というそう意味ではかなり過酷な職業であると思う。

 

擬似的にとは言え、しかし「普通の人の何倍も濃い劇的な物語」を何年にもわたって演じていく、ということである。

つまり「普通の人の人生を何十回分もの体験を踏む」ような職業なのではないだろうか。

 

ある時は戦争の特攻兵に、ある時はギリシア悲劇の召使に、またある時は現代の人間関係に苦悩するごく普通のサラリーマンにもなる。

警察官や検事の時もあれば、極悪党のボスの子供のこともあるだろう。

あらゆる世界を、時空を超えて体験できるという意味では稀有な職業のようだ。

 

そういえば、役者をしている人は総じてメンタルが強く、経済的に恵まれなくても明るい人が多い気がするのは、そうした「物語の経験値」の影響なのではないだろうか。

 

これからの時代は、役者ならぬ「自己表現」がどんな人にも好まれていく傾向にあると思う。

いよいよ脱・横並びが本格的に始まっているようだ。

 

少しづつでも"好きなこと"を生活に取り入れていくことを考えたい。

 

 

私の魔改造(2)

*[ウェブ進化論]ごっそり止める。

日本は戦後に積み重ねた「膨大な管理システム」を捨てられずに制度疲弊に喘いでいる。

システムを刷新できない理由はただ一つ「その運用で食べている人たち」がいるからだ。

制度がなくなれば350万人いるという公務員の大半は(AIでなくとも)コンピュータに置き換わってしまうに違いない。

 

けれど「失われた平成の30年」などと言いつつ、未だに事態は劇的には変わっていない。

若者(50代以下)が蜂起するしか道はないと思う。

 

介護職員が2040年に69万人足りないという。

どうするか。

例えば介護職員の給料を1.5倍に増額する。

厚労省は関わらずに直接施設に割増分を給付するといいだろう。

余分な審査とか計画とかはなしでいい。

 

そしてその次は「巨大なレガシー」の介護保険制度をなくす。(できるか?)

そして老人の年金は倍位に増やす。

どうせ要介護度に応じて、今でも毎月一人当たり何十万円も保険で補填している。

そのための「システムの運用費用」がバカ高いのだ。

 

要介護認定も3だ、4だと言わずに撤廃すればいい。

老人の「不自由度」を細かく認定しても意味がない。

その代わりに「すべての生活を国が保証する」と宣言すればいい。

 

そういう政策を「若い政治家が唱えて世に問う」ということをしないから、無党派・無投票の人たちが動こうとしないのだ。

 

若者の中からそんな政治を志す人が出てきてもらいたいと思う。

私の魔改造(1)

*[ウェブ進化論]巨大権力をまずは消失。

鈴木貴博さんの記事は更新されるたびに必ず購読しているが、氏の言う「魔改造」という問題解決の提言を自分も少し考えてみたい。

例えば、介護業界の人手不足がどうしても改善されず、恒常的に人の数が足りない問題にはどう対処すればいいのか。

 

人を集めるためには、収入を上げる必要があるから、大胆に実現する方法を考えたい。

今のように保険で国が一律にコントロールするのではなく、何をするにもダイレクトにやりたい。

つまり厚労省をなくす。

このクレイジーな組織を見れば、細かい是非はなく「ゼロにする前提」でやらねばどうにもならない、ということが分かるだろう。

悪の見本という他ない。

 

そんなことができるわけがない、という常識人の声が聞こえる。

確かに。

そうするには、今無党派と言われる多くの若者が決断するしかない。

一刻も早くそういう時期が来て欲しいと思うが、もうそれほど遠い出来事ではないのではないだろうか。

 

医療保険も全く同様だが「自分たち有権者がそうした"権力の権化"を作ることを許してしまった結果だから、どこかでガラポンするしかないということ」若い人たちなら決断できると思っている。

 

こうした"コストの塊"を次々と潰していくのが2020年代の役割になるだろう。

(つづく)

*[ウェブ進化論]身内の触媒。

先日、家族が世話になっているご夫婦と初めて会う機会があった時のこと。

こちらは初めてゆえ、先方の仕事のことやら趣味だの日常の様子だのを聞いていると、「私も言いたいことがあるけど」とか「実は色々悩んでいる」とか「もっと趣味の時間が欲しい」とかプライベートの本音みたいなものがたくさん出てきて驚いた。

驚いたのはその中身のことではない。

自分たちは案外、親しい人とは本音で話さないということを知らされたのだ。

特に夫婦とかパートナーなど、一番濃い関係のはずの身内とそうなりやすい。

反対に友人とか、ちょっとした知り合いなどには案外気遣って本音でアドバイスしたりしているのに、である。

 

さらにこれも先日、友人の息子さんと初めて一緒に会う機会があり、これも色々と話していると「そろそろパートナーが欲しいと思っている」とポロっと発した一言に「本当か! お前!そんな気があったのか!!」と驚きながらも嬉しそうな様子だった。

親子も然りである。

 

こうした「第三者を介しての本音のやり取り」は触媒のようなもので、時々は意識してそういう機会を作るといいのでは、と感じた。

親しき中にも本音あり、ということだろう。

 

 

奇跡の今

*[ウェブ進化論]繋がりの前で。

先日、生命科学の先生が「受精して(つまり精子卵子がすごい確率で出会ってうんぬん)それが細胞分裂して着床して…やがて産まれてくること」がどれほどの奇跡的な出来事なのか、ということを淡々と説明していた。

その確率は生まれた時点でなんと三億分の一なのだという。

また「一億円の宝くじに100万回連続で当たるほどのこと」ともおっしゃっていた。

そういう生命の神秘はともかく。

 

こと生まれてからでも、どこの国でとか、育つ環境とか、家族とか友人とか、勉強とか仕事とか出会いとかなんとか…

自分が、今立っているところから「後ろ」を眺めてみると空恐ろしい偶然の積み重ねだということが意識できる。

 

そういうことを「自然界のたまたまのことさ」と片付けてしまうこともできるけれど、そういう必然があったのかもしれない、と考えると「これからの目線が変わる」のではないかと思った。

命の輪廻があるかどうかは分からないが、「生まれてからこれまでの自分」とこれからの自分は間違いなく繋がっている。

そして過去は変えようがないが、これからをどうつないでいくかというのは全く自分次第である。

 

十歳、二十歳でも四十歳でも還暦でも事情は変わらない。

最前線に立っている自分は、これからをどうつないでいくのだろうか。

 

 

正常化へ

*[ウェブ進化論]物差しの変化。

よく雑誌やネットで企業の年収ランキングとか、ボーナスの金額が高いとか、そんな特集が頻繁に組まれているのを目にする。

つまりそれだけ「そういうこと」にみんなの関心が強い(つまりよく読まれる)と言うことの表れである。(同様に世界のお金持ちランキングもよくあるニュースだがへぇーというしかない話題だ)

 

この「ランキングたち」は果たして10年後にはどうなっているだろうか?

自分は「働きやすい企業ランキング」とか「やりがいと充実度トップ10」とか、そういった感情的な項目がこれからどんどん話題になるようになると思う。

 

そして反対に「給料が高いだけで人気だった企業ランキング」とか社畜公畜度トップ10の仕事」などということが取り上げられるのではないだろうか。

さらにはライフスタイルが本当に多様化し、「こんな生活をしています」とか「こんな老後を過ごしています」という個人の生き方そのものが個性を持って話題になるような気がする。

 

江戸時代の小説などを読んでいると、街中にはそんなに「カネカネ」いう人はおらず、悪どいのは偉いお代官くらいの感じがする。

 

現代はちょっとお金に執着しすぎたということなのではないだろうか。

これからの家族

*[ウェブ進化論]大人は黙れ。

成人した男女は…というだけで今はLGBTQと、もうすでに男女だけではないという事実。

それはともかく、では成人したら所帯を持って…というと、一体「所帯とはなんだ」となり、さらに家族単位で、というともはや核家族から単身世帯へと時代に中心は移ってきている。

 

ついこの間のはずの昭和世代の常識はこんなところでも時代に合わなくなってきている。

そんな空気を一番感じているのは30代以下の世代だろう。

家族は増えていくもの。

それが今は「増える喜び」と「増やした責任」が問われ直しているのではないだろうか。

 

「家族が増やして当たり前」という時代は、家族のためにする苦労も当たり前だったと思う。それが「家族を増やすのか、それとも個人中心の生き方をするのか」がようやく検討され始めている。

 

家族は増えるとともに、共感できる喜びもあるが、そのために時間を使うというのも事実。

そして「うまくいかないこと」だってたくさんある。

 

困窮していても大変だが、裕福な家庭でも問題を抱えているケースはそこら中にある。

家族やパートナーのことを損得で考えるものではない、という正論はさておき。

 

なんとなく「結婚とか出産はするのが普通」というこれまでの常識が、変わり始めているということを、特に政治家も含めた大人たちはわきまえるべきだろう。

 

今のままではいつまで経っても「古い常識」が支配して若い人の良さが表に出てこないと思うのだ。

本当の選択

*[ウェブ進化論]ようやく、生き方を選ぶ

国の単位で見れば、日本は生涯未婚率も増加し、出生率はどんどん低下し、いろんな専門家が「国力の衰退だ」と嘆く。

自分の知る限り「縮小もまたよし」と言っている専門家はいない。

 

一方で、結婚した人の離婚率は上がっているし(3組に1組)、それにつれてシングルマザーとか引きこもりとか、そして独身高齢者とか介護難民とか、いろんな新しい問題も時代とともに発生してくる。

「男女とか(そして同性)とかが、お互いにどんな関わり方をして長い人生を過ごしていくのか」ということが、日本でもようやく再定義されていく時代になっているのだ。

 

国の制度として未婚の母親を支援する、というのは重要なことだけれど「そもそもどんな生涯を送りたいのか」ということを問わずして、その後の道筋は描けない。

「パートナーを見つける」とか「出産する」とか「親兄弟の面倒をみる」とかいうことが、ただ自然の成り行きのままに起きてゆくから、自分たちはその出来事が起きるたびに翻弄されてしまう。

「親ガチャ(親は選べない)」というのが流行り言葉らしいけれど、その大元は「いろんな人間関係は、社会通念で決まってゆくものではなくて、自分たちで選びたい」という若者の心情の現れではないだろうかと思う。

 

制度で手当てを給付するから「産め」とか「入籍」とかいう形式を誘導していく時代はいよいよ終わろうとしているのではないだろうか。

 

金との距離

*[ウェブ進化論]正常に戻る時。

元々"金まみれ"とは政治家官僚などの有力者が金に関する不正をはたらいているさま」のことをいうらしい。

オリンピックやワールドカップは金まみれだ、というような表現もよく目にする。

つまりは「ひたすらお金だけで動く世界」を言うのだと思うが、自分たちも全く例外ではない。

 

改めて自分たちは立派に「お金」に相当な程度、いや深刻なくらい支配されている、と最近よく思う。

電車に乗るのもコンビニに行くのも、今のようなサプライチェーン社会ではお金がなくては立ち行かない。

これだって立派な"金まみれ"ではないのか。

そしてまるで主権を得た「お金」は、時に人の命を奪ったりもするし、そうでなくても相当なストレスを自分たちに与える存在である。

 

そんな空気が支配する中で、ようやく正常な感覚を持つ若者が「FIRE」などと疑問を持つ、というのは実はかなり自然なことではないだろうか。

 

経済的に独立したいと言うのは、大量のお金が欲しいと言うことではなく「そんな金まみれの世の中から距離をおきたい」という非常にナチュラルな思いに違いない。

それを大人たちが若者が何かサボろうとしているかのように受け止めるのは、実は自分たちが間違っているのないだろうか。

 

ようやく「当たり前にお金と離れること」を考える時代がきている。

 

若くないウェルテル

*[ウェブ進化論]大胆が目標。

若さの何がうらやましいのと言うと「時間の無駄遣い」ではないだろうか。

素直に嫉妬。

自分も子供などを見ていてつい「寝転んでスマホばかりしているな」と口にしたものだが、反射的にもう「もったいないことをしている」と思い込んでしまうのだ。

若いころのパチンコ自分にそのまま言ってやりたい。

あのころのアホっぷりと言ったら今の若者の比ではなかった。

ダラダラと理由もなしに友達と集まったり、赴くままに漫画を読み耽ったり、ゲームをしたり、そんなことに何の罪悪感もなかった。

忌々しい。

 

最近は若者が「ちょっと時間潰ししてきます」なんて言ってるのを聞いてもドキッとする。

「あんまり潰しなさんな」とか言いたくなるし。

 

そして反対に「時間を惜しむ」のは歳とともに出現する傾向で、歳を取ってからも鷹揚にゴルフやハイキングを楽しんでいる人を見るとかなり羨ましい。

そしてその割には割と細かい家事とかサプリメント探しとかには時間をかけたりしている。

 

ラーメンとか丼物とかも食べてみたいが、ゆっくりと気にせず好きなだけ時間を使う、というのが年ととともに課題になりそうだ。

 

そう言えば「死ぬまでに読みたい本と観たい映画」なんてメモしていた時代もあった。

そのメモもなくしてしまった。

ようやく選ぶ

*[ウェブ進化論]モラトリアムという方法。

昭和の学生運動前後でモラトリアムといわれた世代は、戦後のように「ただひたすら復興のために働く」ということに疑問を感じた世代だという。

そしてそれから、その後何と50年ほどもかなり「均質の時代」が続いていた。

復興、高度成長期から失われた平成の30年までがこれまで来た道、である。

 

そして次のモラトリアムは今だ。

FIREなどとも言われているが「今一度働くことの意味や目的」を考える機会をもたらしたのがコロナ禍だったというのは、皮肉な話ではある。

戦争ほどではないにせよ、高齢化も進む中で「老年世代も中年も、若者も一斉に」そうしたことを考え直す時代に入っている、ということは特に若い人には知ってもらいたい話で、定年後の年金の話ばかりする"逃げ切り根性"にはなってほしくないと思う。

 

例えば大企業に身を寄せていることとか、ホワイトカラーとか、あるいは結婚とかいうことが、一体どれほどの負担を伴うことなのか、ということを特に意識なしに選んでゆく時代はもう終わっていると思う。

 

ようやく、選択の時代が始まっている。

コツは"今の自分から"リセットして考えてみるのが良さそうだ。

これからは、こんな歳でも今が一番若い。

 

それが作品

*[ウェブ進化論]物語を作るということ。

先日見た芝居「火の風にのって」。

www.airstudio.jp

一言でいえば"戦時中と現代の若者の価値観がつながる"という話だった。

古代から「世代間の嘆きは無くならない」と言われているし、そのギャップが解消されたという話はとんと聞かないから、まあ永遠のテーマと言っていいだろう。

 

「今の二十歳と戦時中の二十歳が交信する」という設定は見事で、それこそ自分のような中年にもビビッとくるものがあった。

戦争モノの映画や芝居はやはり「フィクション」として見ているのだろうし、楽しい内容ではないことが多いから、どこかで浮世離れした話だと思い込んでいるのだと思う。

 

"時空を超える"というテーマが一つのジャンルとして無くならないのはそんな「時代感覚のギャップ」をリアルに観客に感じさせる定石なのに違いない。

そんな、一見禁じ手とも言えそうなストーリーをどう組立てるのか、というのが作家という仕事なのだとしたら大変な職業である。

 

そして。

「戦時中の60歳と今の60歳」が繋がってみるとどうなるのか。

恐らく劇中と同様に「何だかお金だ定年だの、老後だの、ずい分小さなことばかり気にしているな。どれほど幸せな時代なのかを思い知りなさい」と言われるに違いない、ということを自分も意識しておこうと思うのだ。