藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

デジタル逆襲

*[ウェブ進化論]名プレイヤーたち。

www.youtube.com

それにしても、これほどのコンテンツが、特に今の若い人のものと「昔の巨匠たち」が混在してくると「たかがネット」と言ってはいられない。

完全に「ネットありき」に軍配が上がったのが2020年なのではないだろうか。

これからは昔のコンテンツや歴史的な遺産なども「改めてネットで」と言うことが常識になるような気がする。

 

しかもデジタルの世界は「作る」ことをし始めている。

昔の「遺せなかったコンテンツ」すら復活してくる気配がある。

ゾロアスター教ソクラテスアレクサンダー大王やナポレオンとかが、現実味を帯びてネット上に現れるかもしれない。

紫式部が現代に現れて歌を詠んだら、昭和の歌謡スターどころの話ではないだろう。

 

デジタルの技術が、遠く古代のことまでも掘り起こし、あるいは創作して蘇らせてしまうのがこれからの役割なのかもしれない。

古代はこれからリアルに蘇るのだとしたら、これほどの「時代の反転」はかつてなかっただろう。

 軽いと批判されがちなデジタル技術が、実は歴史を再生してくれるのだとしたら楽しみというほかないだろう。

雑種志向

*[次の世代に]異物好み。

今日で57歳になったが、精神的にはさほど成熟しなくとも分かることはあった。

体の老いについては、実は言うほどではなく、成人病などに注意していればそれほど騒ぐことでもない。

血糖値や尿酸値やヘモグロビンやγ-gptが…と言うのは普段の注意の問題で、健康診断の時だけ騒ぐから慌てるのに違いない。

要は普段の心がけだと思う。

 

それよりは精神的な「異物について」。

純血種をサラブレッドなどと言うが、由緒ある血族とか組織ほど「純血」にこだわる傾向がある。

そしてそのこだわりは「次の時代の変化」への適応を拒む。

 多分「純血を守る」というパワーは「異種と交わって強くなる」と言うこととは相反する関係なのだろう。

 

そして、往々にして残ってゆくのは「異種混血」で強さ備えた"雑種"だ。

自分の生きる家族や組織が「純血」であればあるほど「異物」への関心を持つようにした方がいいだろう。

 

どれほど「異物と触れ合うか」こそがその個体の強さを決めていくような気がする。

そういえば「異種格闘技」がいつも面白いのは昔からの定番だ。

自分たちは長いことかけて「案外同じようなこと」をしているらしい。

 

 

消化力

*[ウェブ進化論]知る世界とわかる世界。

"フェイクニュース"が現実と見分けが付かなくなっているという。

それもそのはず。

リアルに人から聞くニュース(テレビや新聞も)に比べて圧倒的に「ネット経由」が増えてしまった。

さらにyoutubeの発信も盛んだ。

すでに情報量では「リアルとバーチャルは逆転している」。 

 ネットとデジタルの世界で「フェイク」が流通すれば、それはもう嘘ではなく「そちらがリアル」になってきている。

閉鎖的な情報空間でコミュニケーションを繰り返すことで偏った考え方が強まるエコーチェンバーという現象が知られています。 (nikkei styleより)

 要は「どのような閉鎖空間に自分がいるのか」ということで、自分の思考そのものが左右される時代になっているのだ。

昔のように書籍と講義で「ある種風通しのよい自由な環境」ではなく、特に「バーチャルに自分がいる空間の性質」で自分の世界は偏ってしまうのがネットの本当の特徴なのかもしれない。

 

つまり、「ますます膨れ上がる情報の量」と、「ますます閉鎖的になるバーチャル空間」に、いかに翻弄されずに自分の定位を保つのか、ということがこれからは重要になるのだろう。

奇しくもコロナの騒動は、そんな情報の錯綜を絵に描いたような事態になっているようではないか。

どこから、どんな情報を手に入れて、自分で消化できるのか。 

 再びそんな時代が訪れている。

サイクル考

*[次の世代に]*[7つの習慣]サイクルを作るのは私。

短い時間に考えてみる。

自分が「いい風向きの中」にいるのか「そうでない方」にいるのかを考えてみる。

そうするとどちらにせよ「その中心に自分がいる」ことに気づく。

風向きを作っている中心は自分なのだ。

 自分が影響できないところには風は吹かない。

だから何かよくないことやトラブルが起きるなぁ…と思ったら自分が「どんなサイクルを起こしているのか」を考えてみるといい。

自分の記憶で言うと、多分周囲の人や環境のせいにしてみたり、他人の成功を羨んだりといわゆる"ダークサイドに堕ちている"ことが多い。

坂本龍馬ではないが、恨みは本当にロクなものを残さない。

 そんな風に考えると「負の感情」といかに付き合うのか?というのが究極のテーマなのかもしれないと思う。

 マイナスを無理やりポジティブに、というのもしんどい話だが、うまくいかない時に「自分の影響の輪」の外側のことには捕われないことだろう。

 

特に不振の轍につかまっている時には自分を冷静にみられないものだ。

だから"反射的に考える"習慣をつけておきたい。

よくないことが起きたら、反射的に「自分がどんなサイクルの中」にいるのか。

自分の力で挽回したり、対応することが可能かどうか。

それで無理なものについては、くよくよしない。

 

反射的に、反射的に。

罪と罰

*[次の世代に]まずやってみる。

昔から「いく場所がないから罪を犯して刑務所に行く」という悲惨な話はあった。
折しも、コロナで刑務所内の感染や維持が大変らしい。

何万人もの人がただ刑に服すというのは正しい姿なのだろうか。

積極的に働いてもらってはどうだろうか。

そもそも、刑に服して「ただ囚人として過ごす」のが本当の償いなのだろうか。

"懲らしめ"にはなるのだろうが、経済的には負担ばかりが増すだろう。

むしろ犯罪を冒した人は、その過去を晒しながらも積極的に社会に出る方が「陰にこもらない」で社会のためにはいいのではないだろうか。

 そして社会の人たちも、そうした人たちを「分かった上で差別しない」ことが大前提だ。

 

刑事事件の報道を詳しくみていて、いつも思うのが「自分がその境遇に遭った時に、果たして思いとどまれるのだろうか」というくらい切実なシチュエーションはざらにある。

誰もが「場合によっては罪を犯す」かもしれないから、犯した罪はむしろ積極的に社会で償ってもらうような仕組みができればいいと思うがどうだろうか。

 

少なくとも「塀の中だけで長期間過ごす」というのは、本当の改善につながっていないように思う。

ベーシックインカム同様、こうした話も事前に議論ばかりしているのではなく、試行していく必要があると思う。

 

時代の胎動

*[ウェブ進化論]新時代へ。

 思えば去年の今頃から「コロナウィルス?」というニュースが頻繁に流れ出して、その後世界的にえらい騒ぎに突入したのだが、「その時、まだ人々は知る由もなかった…」という映画のオープニングのようなことが起きていた。

これまでも阪神や東日本の地震やら米テロやら、大事件は度々起きていたが、いつもその後に目指すのは「復旧」「復興」だったと思う。

 

今回のコロナ禍がどうも違うのは、この先向かうのは「これまでへの回帰」ではなく「どこか新しいところ」のような気がすることである。

 

これまではいくら大地震や洪水が起きても「都心のオフィス」は必要だと誰もが思っていたし、街中の居酒屋や、連休を利用した大移動なども、誰もが「必要なもの」そこに疑いの価値観はなかった。

この度のコロナはその得体の知れない恐怖もあって、自分たちに「価値観の見直し」を迫っているようだ。

 そう言うと何か世紀末思想っぽいけれど、長らく、多分「ここ200年くらい信じられてきた方程式」が変わろうとしているのだとしたら、とても興味深いことだろう。

 

まさに歴史的転換点なのかも知れず、しかも世の中は技術的には史上最高の水準にある。

"旧世界から新世界に向けての動きが昨年から始まった"と考えてみてはどうだろうか。

 

ハンコはともかく、「自分に必要なものとそうでないもの」は、もう自由に選ぶ時代がきているのではないだろうか。

 

人称思考(2)

*[次の世代に]自分ファイアウォール

昨日「自分の中に自分を作る」という話を書いたけれど、その後案外使えることに気がついた。

例えばおにぎりが食べたい時に、自分に「おい、オマエに本当に今必要か?」と聞くだけなのだが、完全に「おい、オマエ」と人格を移して思考するところがポイントだ。

 とここまで書いて、尊敬する糸川英夫さんが常々"デ・センター"という名称で「思考を相手に移す」ことを提唱されていたことを思い出した。

これはデセンターの「セルフ・バージョン」である。

 

何か事業を始めるとか、撤退を決断するときには「積極・消極的の両方から検討する」というのはよく言われることだが、これを「自分の中」でやることに意味があると思う。

あくまで自分に問いかけてくるのは「他人」だ。

例えば飲み会にいく時に「おい、オマエ」と問うてみる。

そうすると必要な飲み会はほとんどなくなる。

タバコを吸おうと思ったら「おい、オマエ…」。

多分「吸うべき理由」はない。

それを繰り返して「そういえば要らないな」と思えばシメたものだ。

 

宝くじを買う時「おい、オマエに…」。

多分買わないのではないだろうか。

何もすべて禁欲せよ、というわけではなく。

その問いを乗り越えてでもやりたいこと、を考えましょうという話である。

 

う、夜になると酒が呑みたい…

人称思考

*[ウェブ進化論]自分で分裂。

昨日「食べたい」「呑みたい」という衝動がある程度"自分に問いかけること"で抑えられるということを書いた。

これのコツは「おい、オマエは…」と自分で自分に問いかけるところにあると思う。

つまり「二人称の自分」から自分に問うてみる、ということだ。

 思えば、一人称で「自分の中で自分を考える」というのは難しい。

だってそこは「自分の中」だから、自分自身の姿かたちを客観的にみるのはムリがある。

なので自分の中に「自分じゃないヤツ」を意識して作る。

よくアニメにある「心の中の天使と悪魔」のまあ"他人バージョン"だ。

 

そして何か「よろしくないこと」を衝動したらそいつを起動する。

そして「おい、オマエは…」とやるのである。

コツは自分が自問するのではなく、あくまで「他人から」ということだと思う。

本当の他人から言われている、ということを想像するわけである。

 

そして思う。

さらに、大事なこととか、抗い難い思いになった時には「さらなる自分」を立ててみる。

三人称にするのだ。

そうすると「自分ともう一人のヤツと、さらにもう一人が出現」することになる。

つまり「自分を二人の他人の眼」でみることになるので、客観性はさらに強力になるだろう。

自分の心の中を見つめる内観法、というのがあるが、これはAndroidのようなものを自分の中に作っていく。

分裂思考と言ったところかもしれない。

衝動抑止

*[次の世代に]一瞬、立ち止まる。

今月の4日に「自脳」という題で書いたのの続き。

どうしてもアルコールを摂った後にいわゆる「シメ」が欲しくなるという話だった。

それが実は「オマエに本当に今糖分が必要か」と一瞬頭の中で考えるだけで、食欲が抑えられることに気づいた。 

それが実は12月上旬から続いている。

それまでは、外食から帰る道すがら「今日は帰ってから何を食べればいいか」ということばかり考えていた。

「より胃もたれせずに、より低糖質で、しかも今日の自分が食べたいもの」について考え、またそれに適応した食材にと低糖質のカレーやピザや、チーズ系の製品などを常備していたのですが… 

 それがなんと自分の頭に問いかけるだけでストップできるとは驚きの発見だった。

そしてそして。

それが今度はアルコールについても適用できそうなことを見つけたのだ。

外食時には飲みたい気持ちは抑えないけれど、自宅に帰っても飲み続けていたお酒を寝しなの「最後の一杯」は我慢できるようになったのです。

 

やり方は"シメ"と同様に「もうオマエに今日はアルコールはいらないんじゃないか?」ともう一人の自分が呟けば、「そういえばそうかな」と反応する自分がいた、という感じ。

 

人間そうやって「一歩立ち止まってみれば」単なる衝動に流されない訓練ができそうだ。

ぜひいろんな「判断ごと」で試してみようと思っています。

成果が出たらまたご報告します。

満足のデザイン(4)

投資信託はいかがですか」

「いやちょっと国債は…」

*[次の世代に]そいつとの付き合いかた。

「外国株仕組債はどうでしょう」

「いやー金融緩和が過ぎていて…」

金融とか不動産業界の人と話していると、実に真剣な雰囲気である。

それはそう、「自分の財産とか生活に直接関わる話」だから、その辺の世間話とは訳が違うのだ。

けれど一歩引いてみて思う。

いい大人が揃いも揃って何を真剣な顔してああだこうだ言っているのだろうかと。

まるで競馬の予想をしているように。

まるで血液型占いをしているように。

同じでしょ、「そういうこと」と。

 

いい年を生きてきた大人が、ことお金の話になると真剣だ。

損をしないように、少しでも得をするように。

これ、お金以外の他のことでそんな振る舞いをしたら、多分「やめろよ、大人気ないぞ」と嗜(たしな)められるに違いない。

けれど、お金の話はみなさん真剣で、誰もそれを疑わない。

何か、みんなして壮大なお芝居を演じているような気がしてきたのだ。

 

そんなものが、実は壮大な"マネーゲーム"なのだとしたら、あまり深入りするのはよくなさそうだ。

ゲーム中毒になり、本来したかった生活が荒れてしまってはしようもない。

お金の研究は必要だが、それに取り憑かれては「ミイラ取りの」である。

ほどほどに付き合いたいものだ。

満足(3)

*[次の世代に]同時に知って欲しいこと。

今週はなぜかお金の話についてばかり書いている。

自分の考えることというのは、やはり出会った人たちによる"外部刺激"でずい分変わるものらしい。(だから積極的に人と会いましょう)


コロナ後の最近の様子など、久しぶりに金融業界の人と話をしていると、改めて「お金を中心とした世の中のこと」の詳しさに驚く。

アメリカがどう中国はどうインドがどっちとか、日本株と日銀がどうとか、債券のマイナス金利新興国の通貨のこととか、まあよくこれだけ勉強しているものだと感心する。
そしてこの人たちは、こういうことを毎日毎日「仕事として」続けているのだ。

まあ「お金関係の専門家」である。

はて、果たしてそれって楽しいのだろうか? とふと疑問に思った。

 

世の中、万能に見える"マネー"が行き渡っている。

環境のことも貧困のことも、エネルギーも貿易も政治だって全部「お金」の話である。

だから「お金の勉強」をする材料には事欠かない。

というか大体のことが「お金の話」なのだから。

そしてそうしたお金に魅了され"取り憑かれる人"もこれまた多い。

これはまるで怨霊のようなもので、憑依されると容易には落ちてはくれず、一生そのままの人も多い。

 世の中を生きていくのに、お金の話や知識は必要だが、それそのものが目的になっては本末転倒というものだ。

世の中に起きるトラブルがほとんど「お金と男女のこと」なのと、また「お金そのものはゴールではない」ということは同時に知っておくべき大事なことだと思う。

 

 

トラブルの原理

*[次の世代に]万能のセンス。

この世の法律相談を見ていると、つくづく「お金のこと」について考えさせられる。

"そういう眼"で世の中のニュースをみると八割以上は経済の問題である。

恐ろしや。

民法がざくっと"財産法と家族法"に分かれているのは、まさに自分たちの日常が「そういうもの」だということだ。

刑法の絡む事件だって「お金か男女」という切り口でみればほとんどそうだろう。

世の中で起こるトラブルのほとんどが「お金か男女のこと」なのだということを理解している子供はどのくらいいるのだろうか。

 義務教育の道徳の時間に、人種差別や環境問題の話をする前に、何よりも必要なのは「お金と男女の問題」がこれから自分たちに起きるだろうことを、早いうちに教える必要があると強く思う。

知らずに船出した若者たちは、どんどん「そういう問題」に足を掬われる。

 また逆に「この世はカネで支配されている」と勘違いして、ひたすら金儲けに走る危険性は昨日話した通りである。

 

若者たちのほぼ全員が出遭うだろう、困難なトラブルに対して、街の道路標識のように"警告"がたくさん必要だと思う。

だって世の中を見渡しても「そんな問題」ばっかりではないですか。

争いのない世界、というか「あらかじめ予兆を感じるセンサー」を若者に備えてもらいたい。

事前に予想できていれば、かなり違うはずだと思うのだが。

満足のデザイン(2)

 *[次の世代に]リアルに10年後。
お金は常に話題の中心で、あればさらに欲しくなったり、なければ不満や争いの元になる。
万能ゆえに厄介な存在だと思う。
この世は完全に経済に支配されている、とも思えるが実はそうでもない。

その「そうでもない」と想像する力がないと下手をすると「そいつ」に振り回されて最期を迎えることもある。

 それでいいならそれもいいが、予め想像してみると、あまり楽しい人生ではなさそうだ。

自分も若い頃は「それ」を目指して突っ走っていたけれど、着地点をいメージする想像力はなかった。

 

10代20代はそれもよし。

野心のない若者というのも寂しいものだ。

けれどみんなに確実に80代、90代はやってくる。

若いうちから、老後の"ウン千万"のために稼ぎ続けなきゃならないのか。

それともそろそろ「これまでと全然違うライフスタイル」をみんなが考える時代なのか。

 

既存の「年寄りたちの物差し」でこれからを測っては後悔する。

彼らの物差しは、とっても固定的だから。

もう硬直しているから。

30歳になったら。

40歳になったら。

50,60,70、くらいまでは10年後をイメージしてやりたいことを考えておくといいと思う。

思わず「おれ何やってんの?」なんて気づきがあるかもしれない。

満足のデザイン(1)

*[次の世代に]お金の魔性。
お金というものはどうも"何にでも変化ができる"から、つい「それ」が関心の中心になる。
魔性と言っていいだろう。 
さらに、あればあるほど強欲になりがちだ。
 
若い頃はやりたいことや欲しいものが多いのに、お金がないからお金が欲しいと思う。
お金さえあれば何でもできる、自分の欲望は全て満たされるとも思っていた。
そしてガッツのある人たちは「稼ぐ」ことに夢中になる。
商才があったり、優秀な人ほどこうした轍にハマりやすいようだ。
「稼げる職業」とか「年収ランク」なんていう話題が頻繁に記事になるのはそのせいだ。
 
しかしまた、お金は足りないと恨みや争いをうむ。
お金のことで修羅のような形相で憤怒している人をみたことがあるだろう。
つまり「一定の水準までは必要だが、無限に必要ではない」ということを想像する能力がないと"お金に引きずられる日常"になってしまう。

 「足るを知る」と哲学者や僧侶はいうけれど、どうもそれは「足りてから」のものではないようだ。

というか「足る」を追求すると、多分いつまで経っても足りないのだ。

そんなことを考え、老いを迎えるまでに自分の"人生のデザイン"を考えるような試みが必要なのだと思う。

年代とともにやりたいことも価値観も変わってくるから、10年おきくらいに見つめ直してみるのがいいだろう。

(つづく)

一呼吸

*[健康]*[次の世代に]just a moment,please.

先日、自分の頭に「それって本当か?」と聞いてみる、という話を書いたけれど、それをそのまま継続している。

何のことはない「シメの糖質摂取」の話なのだが、これが案外と効果がある。

そしてこの「頭の待った」は他の場合にも使えることに気がついた。

 

例えば「飲み会」とか「イベント」とかに誘われた場合とか。

「勉強会やwebゼミ」何かもそうだ。

あるいは「投資の話」なんてのもある。

今なら「コロナについて云々かんぬん」なんてのもある。

それが今必要なのか。

長い目で見て必要だろうか。

その先に何か広がりがあるだろうか。

などとホンの十数秒考えるだけで「ああ、実は必要ないな」というものが結構あるのだ。

貧乏性が勝って「何かの役に立つ」とばかりに本を買うのと同じで、手当たり次第に時間を使っているとあっという間に時が経つ。

本は積んでおけるが時間は蒸発してしまうので。

お金よりも。

時間は考えて使いましょう。