藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

世代の役割

*[ウェブ進化論]ただ最新を伝える。

「コップの中にある半分の水」という問答がある。

まだ半分ある、という人ともう半分しかないという人。

これはそのまま人生の長さにも当てはまる。

およそ四十代以下の人たちの消費はまだ「コップの半分以下」である。

だからまだ半分以上は残っている感覚なわけで、だから「刻一刻と消耗していく感覚」はない。

一方五十代以上の人たちは「残りが確実にコップの半分以下」である。

だからリアルに「減ってゆく余命」を感じてしまう。

たった「半分から少し下か、少し上か」の違いで正反対の感覚なのだ。

つまり「残り時間を大切に使おう」というのは五十代以降に特有の感覚なのかもしれないが、時と共に誰の身にも間違いなく訪れるものなのだ。

 

実感できるかどうかはともかく、若い世代の人にこうした話をしておく必要があるだろう。

自分も二十代の時にそんな話を聞けば、少しは考えて何かにチャレンジしようとしたかもしれない。

結局、これからはいろんな世代のいろんな人が「今の最新の感覚」を若者に伝えて行く仕組みが必要だ。

時代が激しく動いていて、定まった価値観がないからこそ「今の自分」を素で発信していくことくらいが、自分たちの役割なのではないだろうか。

 

自然で考える

*[次の世代に]思考と環境について。

先日「キャンプや登山の動画が人気なのは、その自由な様子が魅力なのだろう」と書いた。
一方、そこまでではないが、自分たちの日常で自由なことといえば「自分の足で歩き、好きな場所へ行く」ということだろう。

散歩は日常の究極の自由なのだ。

 

ベートーベンは楽想を練るのによく森の中を散歩していたらしい。

何か考えごとをするときに一番適している運動が散歩なのかもしれない。

何か新しいことを思いついたり、考えてごとをしている時は、ジョギングしたり、電車や車に乗って高速で移動しているよりも、歩いている方が適しているようだ。

自分で動ける何倍ものスピードで移動している「外部からの刺激」と、あくまで「自力のみ」で動いている時の外部の景色が思考のスピードに影響を与えているのではないだろうか。

そういえば新幹線や航空機などに乗っていて、「ゆっくりと物思いにふける」という感覚はあまりない。

周囲の雑音も大きいし、自分が歩いて風を切る音とはまるで違う。

一方、小川のほとりや山の中では「心地よい環境ノイズ」に包まれる。

 

忙しい日常を送る人ほど「意識して自然に身をおく」ということが効果的なのではないだろうか。

変化のテーマ

*[次の世代に]習慣の種類。

昨日、意識とか行動とか習慣とか、「何か生活の一部でも変える」ことを意識してみれば、それが自分に変化を起こすかもよ?ということを書いたけど、その「変えてみること」はいくつかの種類に分けられることに気がついた。

相手は

健康のための習慣とか

メンタルのための意識とか

仕事や家族のための人格とか

趣味を楽しむための行動とか

そんな風にいろんな分野について、例えば「健康のために変えてみることって?」とか考えてみると始めやすそうだ。

「早起き」なんて健康にも仕事にも良さそうだが、人によっては続かないということもあるだろう。

メンタルの健康のためには、改めて世の中にどんな方法があるのかを、全体的に調べ機会になるかもしれない。

禅寺に行くとか、ファスティング体験をするとか、スホーツエクササイズだって可能性がある。

要は「何かを変えていくぞ」という決断ができれば、いつか「どんどん変わっていく自分」が意識できるようになるかもしれない。

そんな自分が意識できている未来を想像すると、ちょっとワクワクしませんか?

 

早速自分でも初めてみて、また経過報告します。

 

主役願望

*[次の世代に]本当に楽しいもの。

例えばボクシングや格闘技など、厳密なルールのもとで体重の制限などもあり「決められた規則の中でお互いが死力を尽くす」という設定が醍醐味を感じさせる。

つまりお互いは、能力以外は「公平」な環境の中で戦うことになる。

野球やサッカーなども厳密な規則集があり、その中でチーム同士が得点を競う。

 

そして、一般人である自分たちの日常もそういう意味では相当厳格な法律や規則に囲まれている。

とてもスムーズで規律正しい良いところもあるが、例えばマスクの着用一つとっても常識が合わさったりして窮屈と言えば窮屈だったりするものである。


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話は変わるが、最近動画では「焚き火やキャンプ」、登山などのシリーズがとても人気だらしい。
確かに見てみると、実にくつろぐ姿が何か清々しい。

見ていてこれの「何が気持ちいいのか」と言うと、多分キャンプや山登りする人が、「まったく自由な選択をしている」というところに一番胸がすくのではないだろうか。

焚き火をしてみたり、肉や魚を焼いてみたり、寝床をしつらえてみたり、どこに根を張り、今日や明日の天気をどのように過ごすのか…

そういうことが全て自分の自由に委ねられている。

 

自分たちは日常の住みやすさのためにルールを作って暮らしている。

がしかし、心の底ではどこまでも自由を求めているのではないだろうか。

 

興奮と冷静

*[次の世代に]チャンスはいろいろと。

鴻上尚史さんの提唱する「未来の自分から今の自分に向けてのアドバイス」があるとすれば、「あまり後悔しても仕方ないぞ」けれど「選択肢はもっとたくさんあるものだぞ!」というようなことだろうか。

何か新しいチャンスに出会い、いざ一歩を踏み出す時に、どうも「その道1つだけ」が目の前に開けているような気がしてしまうのである。

恋は盲目とは誰がいったか。

目に見えたその一点にしか焦点が合わず、周囲の諫言にも耳を貸さず、そのまま突っ走る…という話は昔からの定番のストーリーである。

 

後から冷静に考えれば、もっと大胆なスタートの仕方もあっただろうし、逆にもっと小さく始めて様子を見るやり方もできたはずである。

見切り発車のプロジェクトというのはつくづく徒労が多いものだ。(苦笑)

 

なのでチャンスというか、何か変化が起こるときには、まず「一旦、いや一瞬でいいから立ち止まって、まず他のアプローチがないかどうか?」を考えてみる余裕を持ちたいものだ。

すると、さらに名案が浮かんだりして。

そんな時間をたった一晩でも持てれば、単なる思い込みだけで「手痛い失敗や苦労」をする時間を短縮できるかもしれない。

 

イデアを思いついたという、その興奮の足元で冷静に、冷静に。

 

次だって本番

*[次の世代に]二度目の船出に。

仕事を探しているシニアの人と話していて、もう普通に「人生100年時代ですから」という言葉が交わされるようになっている。

「定年アラウンド」の世代にとってはもう目の前の現実になっているのだ。

それも60歳からの5年や10年ではもはやない。

人生を「10年単位の帯」で考えると「0-20歳」「20-60歳」「60-100歳」くらいの三つのベルトに分かれている。

昔は"60くらいまでの帯"で大体よく、その後は「老後」とか「余生」という名前で括られていた。

年金や家族に世話になって往生するような常識が、あっという間に変わってしまっている。

"人生100年時代"というのは「最後の40年の帯については、年金や子供世代に頼るのではなく、ご自分で考えてくださいよ」という、シニア世代へのメッセージなのである。

 

60過ぎで現役を退き、大体終わるはずの人生にもう一本、しかも「40年もある太い帯」が追加される時代になった。

突然そんな「老年の帯」にさらされた今の50歳以上の人たちはともかく。

それ以下の世代の人たちには、間違いなく「三本目の帯」はついて回る。

二十歳を過ぎて、ようやく「二本目の帯」に乗っかろうとしている若者には、はっきりと「三本目」について認識しておいてもらう必要があるだろう。

 

「老後はなんとか年金で逃げ切り」とか「二十代から老後のための貯蓄を」というのではなく、「社会参加しながらの老後」について、心構えもできてくるのに違いない。

大事なのは若年層の不安を煽ることではなく、あれこれとイメージしてもらうことなのだと思う。

 

役割の製造

*[次の世代に]演技が鍛える。

よく「場が人をつくる」といわれる。

思慮分別の浅かった人が、重要な役割を任されるにつれて言動を慎み、「分別ある振る舞いをすること」によって、実際に成長してゆく様子をさす。

やんちゃなジャイアンが正式にリーダーに選ばれた途端「頼もしいやつ」に変わる。

自分にも心当たりがあるあるある。

そんな重責を追うつもりはなかったのにそんなことに。

けれど乗り掛かった船、というようなことだ。

で何がいいたいか。

 

若いほどに「そんな立場に立ってみる」ということをお勧めしたい。

また、今エラい人は「下々の目線」に立ってみたほうがいい。

思わぬ景色がみえると思う。

それもともかく。

思わぬ役割を引き受けることで、当初は戸惑い、けれど周囲の期待を感じてそのように振る舞う。

最初は"演技"である。

けれど演じるうちに、その本当の役割を考えるようになる。

「自分に期待されているのは本当は何か」ということを。

そして本気で期待に応え始める。

そしてミッションとか信念とかの言葉を編み出し、本当に「そんな存在」になってゆくのだ。

思えば最初からリーダーの人などいない。

全てのリーダーは作られているのだ。

 

"リーダーの出現"をただ待つのではなく、自分たちでリーダーを作ろう。

 

 

雑踏の中で

*[次の世代に]本質の時代。

先日、大学院を休学して伝統工芸を学び始めたという学生さんと話をする機会があった。

大学では心理学を専攻するものの「どうしてもこのテーマでずっと生きていくという気になれないから」他の道を探しているという。

両親にはチクチク言われる、とも。

単純に立派だと思った。

というか飲食店員さんなどを見回してみると、そうした若者は増えているようだ。

大人たちはモラトリアムだ、早く一人前に働け、というだろうけど気にすることはない。

彼らはある意味羨ましいのだ。

自分たちが「そう」できなかったことが。

そんな迷いの先に何かがあるかもしれない。

 

たとえそれが長くても多分「なんとなくの道に行けばよかった」という後悔は残らないだろう。

そして、でも「なんとなくの道」を辿った僕たちも実はあまり後悔はしていない。

なぜなら「もう取り返せない」ことを当たり前に知っているから。

今の後悔に意味はなく、前を向くしかないし、それでいいと思う。

でもゲームやパチンコは控えめにしよう。

思考が止まるだけでその先につながらない。

 

苦しくても真っ当に手探りをして、悶々として。

決められたルールがなく、同調する仲間もなく、まるで雑踏の中で自分のいく先を決めるような感覚が実は考える肥やしになるだろう。

 

エネルギーや経済だけじゃない人生を探す。

天を味方に

*[ウェブ進化論]本当の逆転。

メタバースいう仮想空間が活況で、そこでの不動産などが高値で取引されているという。

自分の直感ではこのメタバースも、これまでのいろんな試みのように消えてしまうのではないかと思っている。

セカンドライフが始まったのが2006年で、15年以上経つ。

それから現在まで、かなりの数のバーチャル空間を創造するチャレンジがされてきた。

クラウドファンディングなどを絡めて残っているものもあるが、まだ「別世界を創る」というレベルではないようだ。

自分は仮想空間がリアルを"ほぼ代替する"時期がいずれ訪れると思っている。

具体的は6Gなどが実用化されるころから片鱗が出てくるのではないだろうか。

ネットの記事を見ると、映像としては8Kの次の12K映像あたりで「等身大の高画質媒体」ができるとの予想らしい。

まさに自分が「どちら側にいるのか」が肉眼では分からない状態になったらそこでリアルとバーチャルの同化現象が起きるのだと思う。

そうなったら今のようにスマホ一色の時代でもなくなる時がくるだろう。

 

新しい技術を使ったチャレンジというのは本当に難しい。

「いい技術が売れるとは限らない」というのは評論家の常套句だが、そんな死屍累々の戦いがあったからこそ「次の舞台」が出来上がるのだ。

 

成功には"時の運"が欠かせないのだと思う。

理論兼実践

*[七つの習慣]七つの習慣のひみつ。

この本に出会って早いもので30年が経つが、手元に置いていていまだに気づかされることが多い。

完訳 7つの習慣 人格主義の回復: Powerful Lessons in Personal Change

不思議に思って考えてみると、理由は「作者の言っていることは変わらない。つまり自分の考えが変わってるってこと」だった。

つまり「受け手の理解力とか感性が変化している」ということだと思う。

不滅のベストセラーになり、今でも世界中で多くのコーチが職業や年齢を問わずに指導している、というのも頷ける。

 

今にしてはっきりと感じるのは"それぞれの習慣"を「完全に使いこなすには技術がいる」ということだ。

例えば「主体性を発揮する」という第一の習慣は一見簡単そうにみえる。

けれど誰(自分)に対し、なぜ(良心を根拠に)、何を(影響の輪)選択するのか

"間違った階段"をす早く登っても、誤った場所に早く着くだけ…

いろんな文章が、今思えばいちいち納得できるが、30年前は「ただ通り過ぎていたなぁ」という部分がとても多い。

 「相手の立場が理解できた途端に、その見方が180°変わる」ということも最近よく感じるようになった。

今こうして書いてみて分かったのは7つの習慣には「理解できる」部分と「実感できる」部分の差があるということのようだ。

理屈は分かった、というのと「その習慣を実践している」というのでは1か0かくらいの違いがあるのだと感じる。

この本は"概念の書物"であると同時に"実務書"でもある。

 

まだまだ実務が足りていないことも分かった。

 

 

時代の目(2)

*[次の世代に]FIREの意味。

主に昭和の時代に「よきこと」とされていたことが注目されなくなっている。

学歴とか大企業とか終身雇用という言葉がこんなに急に色あせるとは思わなかったアッパー世代は多いのではないだろうか。

そんな風に昭和以前の人たちが使う言葉と、令和の若者が使う言葉はずい分違うのに驚かされる。

「安定」とか「蓄財」とか「運用」とか「都心」とか「競争」とか「出世」とか。

もう若者からはとんと聞かない。

一方でまだそれを口にする年寄りは結構いるので、若者は口をつぐんでいるのだと思う。

おそらく「自由」とか「熱中」とか「選択」とか「自発」とかいうのがこれからの頻出ワードになるのだろう。

 

FIREというのは「金をどんどん稼いで早めに隠居して遊ぶ」という意味かと思っていたが、どうもそうじゃなさそうだ。

大人世代のしがらみ、すなわち「お金の話題」から独立し、"お金が基準ではない自分のやりたいことができる環境"を作ろうとしているのだろう。

だとすると納得できる。

だから別に「稼いでから」の話ではなく「大して稼ぐ必要のない環境」を作るのもFIREだ。

田舎に暮らして「低消費生活」の土台を作り、そこでゆっくり自分のライフスタイルを探っていくのも立派なFIREである。

 

既存の価値観で若者を見ると大きな勘違いをしてしまう。

注意が必要だと思う。

 

 

 

 

 

時代の目(1)

*[ウェブ進化論]流行りか廃りか。

令和に入って4年目。

世間の価値観が大きく変わっていることに気づく。

中でもおじさん、おばさん逹以上を除く若者世代を見ていれば特徴ははっきりしている。

ミレニアルとかZ世代などと呼ばれてもいるが、そもそもそういう「世代のラベリング」が」が白けてきている。

それは若者が自分たちをそう名付けているのではないからだ。

名付けているのは「そんな風にレッテルを貼りたい」大人たち。

以前はその大人たちの中にも「目指したい正解」があったのだが、それがもうからきし無くなった、ということだろう。

四十代を境目に「上下でまるで違う時代」だということをアッパー世代たちは自覚しないと、これからますます断絶が広がってしまうと思う。

自然にそれが修復されるのを待つと(自分たち世代がいなくなるまでの)あと30年くらいかかるので、大人たちは早めに若者理解に努めた方がいいだろう。

 

年寄りのせめてもの義務である。

ところが、その年寄りたちが既得権益にしがみついている現在をみると、若者はますますこっちを向かなくなる。

いつの時代にもあった世代間のギャップが今は一番顕著な時代になっている。

 

これからは「進んで年寄りが歩み寄る」のがキーポイントに違いない。

 

 

 

 

思考の習慣化その2

*[七つの習慣]教訓回路を作る。

以前、

「難儀が起きたら、"いよいよか!"とか"よくぞ来たな!"と自動的に考える」思考の習慣について書いたことがある。(習慣化その1)

喜怒哀楽の感情が起きる間髪を与えずに、もう自動的に思考をパスしてしまうという方法だ。

かなりアホらしく聞こえるかもしれないが、実戦では案外役に立つのだ。

それの続編。

「〇〇を貴重な経験とするならば」という公式を作る。

この"〇〇"には特に自分の「失敗とか挫折」を代入する。(習慣化その2)

これも自動的にやる。

わざわざそういうのには理由がある。

これも例の「思考の習慣」にしたいのだ。

 

「今回の投資の失敗を貴重な経験とするならば」とか

「今回のプレゼンの失敗を…」とか

「今回の彼女との喧嘩を貴重な…」とか。

学生さんなら受験とかテスト結果とかでもいい。

四十代で進路のミスに気づいた中年さんでも構わない。

気づいた時を出発点にできるのだ。

失敗に気づいた途端に、あまりクヨクヨせずこの公式を発動する。

 

自分たちは感情の動物だから、この方法はなかなかに有効だ。

昨日の飲み過ぎを教訓にできるだろうか。

う、できるはずだ。

 

挑戦の極意(2)

*[七つの習慣]目的を持って始める。

昨日「リスクを取ってチャレンジしても、そうそう上手くいくものではない」という話をしたけれど、

あらかじめ「一勝九敗」くらいの覚悟でいけば何とかなるものだ、とも思う。

そして、そんな覚悟がないとどうなるか。

もう早々に挑戦そのものを止めてしまうのだ。

そして組織の風化はそこから始まる。

これまで大企業のそんな様子を何度も見てきた。

新規事業とかイノベーションというのは「失敗前提」で、しかし「ひたむき」にやらないと実現しない。

そしてまた、事前にシミュレーションを十分に重ね、思いつくあらゆる面から検討していても、「いざ手掛けてみると例外の連続」なのも、もはや当たり前といっていいくらいよく起こることである。

 

よくある話だが、まったく知らない商材を扱い、販売マージンを取るような仕事に挑戦し、失敗する人がいる(自分も何度もやりました)けれど、それは着地を考えずに「利益志向」で挑んだ結果である。

 

そういう意味では「チャレンジする対象」は無限にあるようだが、"本当に自分が挑戦したいこと"をよほど念入りに検討する必要があるということだ。

あらかじめ十分に検討し、「成功の姿」が脳裏にイメージできることを確認してから、いよいよチャレンジだ。

 

ゆめゆめ「ビジネスモデル」とかから入り口を見つけないようにしたい。

あれ、かなり刹那的だから注意しよう。

 

 

挑戦の極意(1)

*[七つの習慣]何が得られるか。

リスクあれこれ。

「やることのリスクより、やらないことのリスク」とよく表現される。

自分の経験から言わせてもらうと「経済的なリスク」で言えば「やって失敗すること」の方が断然多かった。

つまりお金はなくなった。

その代わりに得たものは「経験」。

でそれが何となくいわゆる「経験値」になって少しは賢くなってゆく。

そんな繰り返しなので、多分「"やること"の投資効率」は恐ろしく悪い。

けれど、けれど。

一般的な投資の運用って利回りが5%とか10%とかよく耳にする。

なので「100の投資をして1割くらいの経験値」が得られれば、よしとしていいのではないかと思う。

さらにこの場合は「元本」も無くなってしまうわけですが。(汗)

つまり「よくても投資の9割方は失われる可能性がある」のが「やること」の意味なのだ。

そのくらいの覚悟でチャレンジしていけば、幾つもこなすうちに確実に経験値がついてくるだろう。

そんな経験値がようやく一定の閾値を超えたら、その先に運よく大きな成果が得られるくらいのものである。

 

森の中の獲物を探してモノにするのは素人には並大抵のことではない、というのは容易に想像できる話だ。