藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

大前提(2)

*[ウェブ進化論]

少子高齢化を問題にするときに、いろんな問題をごちゃ混ぜにして報道されるからいつまで経っても議論が整理されない、という話。

少子化については、主役の「20から40代がどう考えているのか」を主訴に政策を考えないと意味がない。

老人たちが権力を片手に「保険や税金や補助金」を云々しても、まるで若者に響かないのは当たり前というものだ。

マーケティング的には、噴飯物の政治だと言っていいだろう。

 

そして高齢化についても「高齢者が潔く"自分たちの老後"について意思表示しない」ことが原因になっていると思う。

いつまでも福祉に頼って生きながらえたいのか、ある程度のサービスまでで割り切るのか。

自分なら若い人の手間や国の金はできるだけ費やしたくないと考える。

それを自ら意思表示しないと、周囲は動けない。

そういう意味で老年層も甘えていてはいけないと思う。

 

そしてこれからの数百年を考えて、本当に少子化は忌むべきことなのか、あるいは適度なサイズの国へと落ち着くのか。

 

GDPが減少しても、「適度なインフラを持つ社会」を作るにはどうするべきか、という本論について、若い人を中心に意見交換しながら決めていくのが本筋ではないだろうか。

 

一日も早く、議論がスタートラインにつくことを願う。

(つづく)

 

 

大前提(1)

*[ウェブ進化論]問題の前に。

ニュースでも動画サイトの討論でも日本の問題というと、いまだに必ず「少子化」の話が上がる。

もう何十年もそんな話ばかりしている。

そしてその原因はというと「若者が感じる結婚制度の煩わしさだ」とか「子供を持つメリットとリスクについての逡巡ではないか」とか「価値観の多様性だろう」などと喧しい。

 

そして、そもそもあと30年生きているのかどうかも疑わしい老人が政治を牛耳っているという構造が、何よりも古めかしい。

「政治家は50代まで」と限定して、一旦老人は身を引いてはどうかと思う。

国の空気を一度「総入れ替え」しないと政治のダラダラは高齢者たちの既得権としてまだ二十年くらいは続くのではないだろうか。

 

もしそうだとすると、この二十年は非常に勿体ない。

平成の失われた三十年と合わせると実に半世紀だ。

この政治ダラダラの特徴は、多分わざと「論点をはっきりさせない」ことにある。

そうしておいた方が「既得権益がいつまでも長く続く」ということを狡猾な大人たちは皆知っているのだ。

 

もはや若い世代から見て「ブラック層」と言っていいくらいの存在だと思う。

現在出てきている、いくつかの若い政党にはぜひ「まず旧体制を打破してやり直す」ということを第一にしてはどうかと提案したい。

 

まずはそれから。

(つづく)

次の舞台

*[ウェブ進化論]次の魅力。

先日、アメリカからの客人を築地でも評判のコスパの立ち食い寿司に招待したら、「これほどの質ものをこの値段で提供できるというのは、世界に例がないと思う」と話していた。

「地方に行けば安くて美味しい魚はあるけどね」と答えると「それには電車賃がかかるでショ」と言われてなるほど、と思った。

 

日本人としてはニコニコしていた自分だが、さらに「日本には世界に類のない食べ物がたくさんあるのに、なぜそれをもっとアピールしないのだ?」とこれまた不思議そうに言っていた。

「ファミレスもスシもステーキもチャイニーズも全然違う」とのこと。

カントリー出身の彼は「自分の故郷にこんな街があったらそこに住みたい」といっていた。

 

IT技術や製造業も色あせたような感じがしている日本だが、自分たちが気付いていない「日本の魅力」をもう少し考えてみても良いのかもしれないと思った。

都心はどんどん世界中から「お金持ち」を集めようとしているようだが、どうにも騒がしい。

 

これからは日本中の山と川と海に散らばっている地方都市が注目されるのではないだろうか。

そして富裕層の人たちでなくとも楽しんで過ごせる、というのが人気になるのではないだろうか。

不偏の講話

*[ウェブ進化論]私の配役。

先日、菩提寺のご住職から聞いた話。

我々は誰もが自分の人生の主人公です。

それは間違いありません。

まずは「自分が主人公の人生」をどう生きるのかを考えてください。

そして…

けれどその人生の「生きがい」は、別に自分が中心にいなくてもいいんですよ。

生きがいを見つけるのに、生きがいを感じるのに「主人公は自分以外の人」でも全然構いません。

人はむしろ生きがいを「自分以外の人のためにする何か」で感じることが多いのです。

あなたがしている日頃の生活は、仕事でも家庭でも「誰かのために」役に立っていますか?

作家や芸術家が作る作品は、後々それに感動した人たちがいてこそ報われます。

あなたを見えるようにするのは、周囲の人たちです。

主人公はあなたの周りの人たちみんなかもしれません。

 

その時、その時の主人公を考えてみてください。

 

さすが坊主、うまいことをいう。

というかこれも仏の教えだというから、自分たちはいかに進化していないことだろうか。

それにしても宗教というものには、不偏の説得力があるものだな、と素直に思った。

 

芝居の俳優にも役割は無限にあり、主役ばかりでは成立しない。

そして主役は本当にやりがいを感じているのだろうか。

ひょっとして"脇役の喜び"みたいなものの方が強いのではないか、とも思った。

 

プロセスと結果の関係(2)

*[ウェブ進化論]一つなぎの存在。

結果は実は"本当の結果ではなく"まだその先がある。

だからとりあえず見えているゴールというのは「目先のもの」でしかない。

 

またプロセスというのは、そんな「目先の結果だけ」を達成するものではなく、もっともっと先のゴールとか志へ向かうための大切な一歩一歩なのだ。

 

だから「売り上げ目標」とか「利益率」とか「子育て」とか「夫婦関係」とかいうのは、それぞれの小さな目標の集まりでしかない。

どんなテーマにも"その先"があり、そして終わりすら見えないものもある。

 

「プロセス」というと、ついつい目の前に見えている「小さな結果を達成するための手続き的なもの」だと思ってしまうが、実はその小さなプロセスは「今のゴールの先の先のそのまた先」へと向かう大事なステップなのである。

その大事な一歩を間違えて踏み出すと、後々になって「大きな方向性の間違い」を作ることになってしまう。

 

「今の結果」は「次の結果」にとってのプロセスであり、その(多くの場合まだ見えない)最終的なゴールに至るまでに大切なのは「そうしたプロセスたち」なのである。

 

つまりすべては繋がっているということだ。

そしてその一歩一歩が「さらにずーっと先にあるもの」とずれていないかということも意識しておかねばならない。

 

"大きなゴール"と"小さな結果"と、"一つ一つのプロセス"を考えよう。

 

プロセスと結果の関係(1)

*[ウェブ進化論]結果は実は結果ではない。

自分たちは仕事でよく「結果を出せ」と言われる。

「結果がすべてだ」という怖い言葉もある。

けれどプロセスが間違っていたらいつまで経っても結果は出ない。

もし結果がすべてなのだとしたら、ひたすら「結果」を追い求めればいい。

その結果のために、それこそ「最短で近く」ということが正しいことになる。

そして得られた結果は、そこで終了する。

その先はこれから考える、というようなことになるだろう。

 

けれど「その先」があるのなら、実は最初に目指した結果は結果ではなく、もっともっと先への「プロセスだった」ということになる。

 

つまり世の中の多くの「結果」というのは実は本当の最終結果ではない。

その先、またその先にまだいろいろあって、そして自分の寿命が尽きたらそれが結果だ。

いや場合によっては、自分のいない先にも志が続くこともあるだろう。

そうした場合はもう人の命を超えて「何か」がもっともっと先へと進む。

政治とか社会福祉とかいうのはそういう性格を持っているようだ。

 

ということは、自分たちがしばしば「結果」と呼んでいるものは「実はもっと大きな何かの目標のための標識」に過ぎないのではないだろうか。

 

まず今見えている結果を出す。

けれど、実はもっと先へと向かう何かがあるのだ、と気づければいちいち「目先の結果がが出たかどうか」にばかり振り舞わされる必要はないだろう。

(つづく)

 

サンクタイム

*[ウェブ進化論]隙間そのものをなくす。

自分はよく「隙間時間の使い方」などとということを考えるケチなタイプだ。

風呂トイレとか食事とか移動中とか。

思えば旅行にあまり行かないのは、旅の間にある待ち時間とか移動時間があまり好きになれないからのようだ。

寂しい男である。

それはともかく。

 

移動も含めた「毎日のルーティーン時間」を活用するために音声メモやpod castを使ったり、食事の際には書籍をkindleに詰め込んで読んだり、といったことをしているが「ルーティーンそのもの」にも合理化の余地があることに気がついた。

 

例えば一日三食食べる人なら、それを一食にすることで"毎日一時間半"くらいは余裕の時間ができる。

映画一本分くらい!

これ大きくないですか。

 

さらに自分は、毎日長時間入浴(20分)をしていて入浴に一時間はかかっていたが、これを三日に一度にしてみると一日に30分程度は短くてすむ。

週に二時間ほどの余裕ができる。

これも馬鹿にならない。

 

通勤時間は短い方だが、それでも往復で一時間半くらいはかかる。

みんなでテレワークの本当の効率をもっと真剣に考えるべきではないだろうか。

週に一度の出勤にするだけでなんと6〜8時間もの時間が生まれるのだから。

 

そして、そうして「まるで無から有が生まれた」ような時間を何に使うか、というのはお金をもらうよりも楽しい。

 

余った時間は自分の好きに使いましょう。

知識の本質(3)

*[ウェブ進化論]固定から波へ。

丸暗記の知識は、まるで化石のようなものでそれ単体では意味がない、ということを書いている。

そう考えると戦後の指導要領に従った、全国統一の学習方式というのがあまりに「知識偏重」に寄っていて「自由な学び」を封じていたことに寒気を覚える。

これからは明らかに「知識同士の関係と流れを学ぶこと」が明確なテーマになるだろう。

そういう意味でも「これまで」とは、いろんなものの定義が明らかに変質していることに気づく。

 

ところで動画の世界では、すでにいろんな分野で「教える達人」たちが自発的にこうした学びを整理し始めている。

現役の先生が、生徒に請われて自発的に実行している事も素晴らしいのだが、いよいよ先生も変質する必要があるということだろう。

 

その知識の持つ意味とか、その学問の意義とか目的とかを示し、でもそれだけではなく。

そのテーマが「将来は他のどんな分野と結びつき」そして「どんな可能性を持っているのか」という"学びの将来"を示していけないと、近い将来教師の存在意義は失われるだろう。

 

「知識が意味を失う時代」は過渡期でまだこれからだ。

常に「その先を考える」というのが学びの基本型になるのに違いない。

 

知識の本質(2)

*[ウェブ進化論]知識は共振する。

一般に数学は「解法の暗記から始まる」と言われている。

それを知らずに自分は「解答の丸暗記」をしようてしていたようだ。

こうした「歴史の縦横」を説明する教科書がどうして今までなかったのだろうかと不思議にすら思う。

それにしても「丸暗記」という言葉は面白い。

ただの暗記作業だよ、という風にも聞こえるがこれは実は「応用の効かない知識の暗記」におわることが多い。

スペインとオーストリアの歴代の王様の名前とか、足利や徳川の将軍や家臣の名前を丸暗記しても応用が効かない。

 

そう考えると歴史に限らず「知識というのは、それ単体ではなく連携して初めて生きる」ということに気がつく。

『ミクロの結合とマクロの干渉』といったところだろう。

この知識の「すぐ近く同士のつながり」と、それが束になったりあるいは「大きなうねり」のようになって、しまいには学問の分野を超えてお互いに共振しあったりする。

 

そう考えると学ぶということは、なかなか壮大なチャレンジであり、実に楽しいことだということにも気付かされる。

以前、いみじくも大先輩が「人生最大の趣味は学問である」と宣っておられたがそういうことなのだ。

 

確かにこれは一生ものだと思う。

(つづく)

知識の本質(1)

*[ウェブ進化論]知識が興味に。

ちょうど一年前くらいにこの二冊のことをレビューしたのだけれど、あれから何度か読み返して、改めて「知識とは何か」ということを考えている。

ネットでサクサク調べて説明を見て終わり、ということを自分たちは頻繁にするけれど、そうした「知識の断片が互いにつながること」というのは案外に難しいものだ。

自分が世界史が苦手だったことも全くそれで「いやいや暗記した年号や、聞いたこともない人物の名前」をいくら局所的に覚えても、どうにもピンとこなかった。

ジャンヌダルクがフランス王シャルル7世を助けた」とか「カスティリヤ王女のイサベルが結婚してスペイン王国が成立した」と言われてもなぁ…と思っていた。

 

それが四大文明の発祥から、そのそれぞれの地方で人が蠢いてまるで「地球表面に張り付くアメーバー」のように離合集散し、今に至る様子が想像できるようになった。

さらに山﨑さんの本も出口さんもそれぞれ「人物」とか「宗教」とか違った切り口で世界史を取り上げた別著が出ているので、これからそちらにもチャレンジしようと思っている。

 

休日の楽しみが一つ増えた感じだ。

(つづく)

修行の理屈

*[ウェブ進化論]自分を晒す覚悟。

よく成功した人たちの伝書に「迷ったら苦しい方に行け」というのがある。

宮本武蔵五輪書から現代のビジネス本にもそうした提言は多い。

 

けれど普通はそんな選択はしにくいものだ。

自分たちはそもそも「やすきに流れる」生き物でもある。

だから「敢えて苦しい方の選択」をするのには理由がいる。

それは「そこに身を置いてこそ、その先の自分が見られる」というチャレンジ精神なのに違いない。

もっと強くなるためには、もっと過酷な環境に自らを置かねばならない。

それは自分に必須の選択なのだと。

 

けれど一旦「こういうサイクル」が自分の中に出来上がってしまうと、あとは「修行者まっしぐら」である。

もう「苦しいこと自体」には疑問はなくなっている。

それを飲み込んでしまうと疑いはないのだ。

あとはひたすら修行に打ち込むことができる。

 

「やると決まったスイッチ」を押してしまったようなものだろう。

かくて「あり得ない修行」が実行されることになる。

 

自分たちはそんな「覚悟」を仕事や家庭を持ちながら試されているのではないだろうか。

仕事も家庭も「苦しいから止める」という選択肢はないことの方が多い。

予め「何が来ようとも受け入れる」という覚悟があればこそ、"その次"が見えてくるのだと思う。

 

敢えて挑戦し、苦しい選択に自分を晒す。

それでようやく「その先」に手が掛かるのではないだろうか。

 

経験と精神

*[ウェブ進化論]鍛錬はやりよう。

最近「場数を踏むことと、メンタルを上げて過ごすこと」について書いている。

自分も今思えば思うほどこれができていなかった。

それをこの年にして気づく(苦笑)。

 

プレゼンでも、プロポーズでも、演奏会でも上演会でもスポーツでも。

「これこそが本番」というメンタルにはなかなかなれないものだ。

しかしプレゼンテーションの達人、と言われる大前研一さんでも、若いころは何度もビデオを撮って話かたから身ぶりまでを念入りに練習したという。

それを自分たちはしばしば、いや常態的に怠る。

結果は歴然だ。

 

受験勉強をしていても、模試を受けても「これが本番だ」とは思っていなかった。

社会人になって数え切れないくらいしてきた、客先訪問やプレゼンや面接も「これこそが本番」というメンタルティは少なかったと思う。

そんな風に自分たちは「本番なのに力を抜いてしまっている」ということがとても多いようだ。

 

反対に宮本武蔵やトップアスリートのように「日常のすべてを打ち込んでいることに合わせる」くらいのことができれば、それほどの才能に恵まれずともかなり上達するのではないだろうか。

「これが仕事、これは遊び」と分けているようではメンタルティの統一はないだろう。

「常にそのモードでいる」ということが自然にできる人こそが達人の域に達するような気もする。

 

さて今から間に合うだろうか。

 

 

 

場数にメンタル

*[ウェブ進化論]日常すら本番。

昨日「本番の場数」こそが上達の秘訣、と書いた。

ところで先日、有名音大出身のあるトップ女優さんに会う機会があり「普段のスナップ写真でもポーズが綺麗ですね」と話かけたところ、

「毎日、普段も演技とか撮影のつもりで過ごしています」とのことだった。

 

つまりプライベートでコンビニに行っていても、家の中で家族と過ごしていても「気を抜かない」ということらしい。

家の中でくらい、誰もいないならダラーっとしたくないですか? と聞いて見たらニッコリ笑顔で「常に撮影されている、と思うようにしています」とのこと。

常に撮影て。

ちょっとしたハラスメントにも思えるくらいだが、そういえば武道の師範代などは、風呂に入ろうと、酒を飲もうと、さらには寝ていてもあまりダラっとはしていない。

お茶の先生とかもそうだろう。

 

みんな"ある道"を極めるためには、もう日常生活をすべて「そっち」へと振り向けているということだ。

「仕事モード」とか「OnとOff」というようなものではなく、全力モードでその道へのめり込む。

いや、のめり込むというよりは「メンタリティをその道に合わせる」という感じだろうか。

(そういえばお笑い芸人の稽古風景はとても厳しい空気である)

 

場数を踏む、ということと同様に「常に高いメンタル」というのもその道を極めるのには必要なのだ。

場数の意味

*[ウェブ進化論]本番の数。

宮本武蔵は生涯で60回の果たし合いをしたという。

これ本番稽古ではなく、まあ命の取り合いだから冗談ではない。

アントニオ猪木どころの話ではないのだ。

それで無敗だというから驚くしかないが、それはともかく。

 

先日有名な舞台俳優が、演技の秘訣を聞かれて「稽古も、また日常も「毎日が本番だと思って臨んでいます」」という発言があった。

毎日が本番。

そう「場数」という。

"上達とそれ以外(平凡)"の差は、ひょっとしてこの「場数の差」だけのものなのではないだろうか。

"天賦の才能"を持つ人の話はよく聞くけれど「本番の経験なしで頂点に立った」という話はゼロである。

 

つまり「あらゆる習い事、芸事、ビジネス、人付き合い、スポーツなど」は、まず『場数を踏む』ということを最重視すべきではないだろうか。

基礎練習も大事だし、上達の理屈を勉強することも有効だと思う。

けれど練習より「本番の経験がもたらすもの」ははるかに大きい。

 

「練習を練習だから」と思ってやるのと、本気で「これが本番」と思うのでは得られる成果が相当違う、ということではないだろうか。

 

これからはそんなつもりで練習を本番にしたいと思っています。

そういえばプレゼンとかは、毎回本番です。

人生で一言二言

*[ウェブ進化論]一生を費やすもの。

先日ある有名メーカーの元社長さんと面会する機会があった。

冒頭のあいさつで「私の仕事人生は映像技術とともにあった。それ以外では家内と出会えたことに感謝しています」と。

何かとてもカッコ良かった。

老境に入って清々しくゆっくり語る様子は、まるで一流の役者の台詞のようだった。

そこで考えた。

あんな大社長ほどではないにせよ、自分にも仕事人生はあったし、家族との出会いもあった。

果たしてあんなに真面目に語れるだろうか、と。

 

ギャンブルに費やした生涯、とか

女に費やした生涯、とか。

別に真面目でなくても構わない。

俳句や短歌は日本の産んだ貴重な文化で、あらゆる意味を韻を踏んで凝縮する様が海外から評価されているという。

日本人は漢字を使うので、究極に短い「今年の漢字」というのもある。

英語圏で「今年の一語」というのはあんまり聞きませんねぇ。

日本人には「凝縮の感性」が備わっているような気もします。

 

日頃老人ホームを訪問していると、お年寄りから「年をとるにつれて、自分の人生の意味を頻繁に考えるようになるのよ」という話を聞く。

"凝縮の考え"は年とともに強まっていくらしい。

そりゃそんなことを考えている若者はいないだろう。

 

なので若い人にこそ「後々振り返ったら自分の人生はどんな風に表現するようになるだろうか」ということを、少しは考えてもらいたいと思う。

 

何か熱中できるものを、見つかるまで探そう。