藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自己視野

*[次の世代に]これから楽しい。

先日若者の起業相談をしていて「無限の可能性があるから広く考えたらいい」と話す自分がいた。

50代から二十代を見たら自然にそう見えたのだ。 

 ところが自分が二十代のころを思い返すと、まるでそうでもなかった。

多分自分にも「無限の可能性」があったはず。

それが驚くほど"狭き道"しかないように見えていた。

他人から定点的に見た自分なんて、そんなものなのだ。

けれど案外、自分が気づかない。

 そしてそう話している自分自身がまた、そうなっているのに気づく。

これが一番びっくりだ。

人が使えるテクノロジーは、今が史上で最も進んでいるから、そんな恵まれた環境で「これから何がしたいのか」を楽しみながら考えていいと思う。

自分は今、賑やかな縁日の屋台の入り口にいるのかもしれない。

 

変わる習慣

*[習慣]メリハリの食生活。

遅まきながら、この度の自粛宣言で何度か自炊をしてみた。

そしてその食費の安さに改めて驚いた。

外食の費用に比べたら三分の一くらいで収まるのではと思う。

自分は料理のスキルがないので、まだ本格的に自炊に移行できそうにないが、「もう少しの知識(今はYouTubeがあるけれど)」と、もう少しの練習ができれば、自分の「食べたいようなもの」をかなり安く食べる食生活が実現できそうだと思った。

そして「そういうこと」に気づいてしまった人たちがこの度大勢いて、外食のあり方がかなり変わっていくのだと思う。

自分などが典型だが、どんな気分でも必ず外食をして、手間をかけずに済ませてしまうのではなく。

"いざ外食を"する時は思い切って高いものを食べる。

その代わりに普段は自分の好きなものを楽しみながら作って生活する、そんなライフスタイルは合理的なように思う。
外食店はこれから数が減り、内容は高級化するのではないだろうか。

よく切れる包丁とかを買い揃えたりして。

 

最後の晩餐とか

*[次の世代に]終わりを意識しないこと。
ある先輩に聞くと、70歳を過ぎると1日に何度も「あと何年生きるだろう」「あとこの場所に何回来られるのだろう」というようなことを考えるらしい。
 で、50代後半の自分ですら、日に1度はそういったことを考えるから、どうも年とともに「そういうこと」を考えるのが自分たちの特徴らしい。

若いころには、むしろ「そういうこと」を考えないのが当たり前だから、若い人にはそういうことを知っておいてもらってはどうだろうか。

 若ければ「終わり」を意識することはない。

だから若い。

だから若くして「終わり」を意識できれば「違う燃焼のしかた」ができるのではないだろうか。

「若さの過ごし方」と「若さの感じ方」を分けて意識できれば、若い時代がさらに充実して過ごせるような気がする。

 

若いからなんでも無駄に、自堕落に過ごすことができる、というのは実に若者らしいが、歳を取ってみると何だか勿体ない気がするのです。

冒頭の。

70才を過ぎて「毎日終わりを考える」のだとしたら、そんな気持ちは若者に表明しておくべきではないかと思う。

若者手帳

*[次の世代に]まず母子手帳に書いてみる。

自分たちは「これまで使ってきた時間や、これから使える時間のこと」をあまりはっきりとは考えない。 

そして、人生の晩年になって「そういうこと」に思いを馳せたりもする。

だからまず子供に母子手帳に書いてあげる。

「あなたがこれから使えるだろう」時間のこと。

そして10年ごとに教えてあげる。

この10年あなたが使ってきた時間とことと、これから使える時間のこと。

若者が時間を意識しないのは若いからだ。
若くして大病をした人が自分の人生を深く考えると言う話はよく聞くが、それはそーゆー切羽詰まった体験を思わずしたからに他ならないだろう。


若いと言うのはそれが特権なのだが、その「無限に使える時間の大切さ」を、少しでも早く届けられたら、時間の使い方が変わるのではないだろうか。

無駄に使える人たちが勿体なく、羨ましい。

 

老い作り

*[次の世代に]老いを見る。

介護施設を見学していると、ことさら「健康寿命」という事について考えさせられる。

なぜならそこには「自分の将来の姿」があるからだ。


できるだけ健康に生活できる時間を伸ばそうという意味だが、これは他ならぬ「自分のため」である。
健康を損ねて、寝たきりや栄養チューブで長い月日を過ごすより、自分で飲み食いし、最後まで自分の手足で生活することがいいのは当たり前のことだろう。

健康管理は決して誰かに言われてやるようなことではない。

「食事を医者に制限されている」のは「止められるようなことをしている」ということだ。

これは若い年代の人にも通用するルールである。

健康管理を怠ると、どんな高齢期を迎えるのか、一度ボランティアに参加していろんな施設を見学するといいだろう。

特に若い人に見てもらいたいと思う。

医者や専門家に言われて、いやいやに健康管理をする、というのは楽しくないものだ。

自分の体は自分で作る、と思えるかどうかだ。

最初の一歩

 *[次の世代に]逆アプローチ。
昨年から営業の現場に復帰して改めて感じたことがある。
営業にせよ普段の人間関係にせよ、まず「話を聞いてほしい」とか「何々は要りませんか」という切り口でアプローチをすることがとても多い。
そうするとよくても半分は怪訝な顔をされる。
「忙しいのに、何ですか」という感じがありありと伝わってくる。
 
けれどよくよく考えてみると、これは実は順番が間違っていることに気づく。

自分話を聞いて欲しければ「まず相手に何かができてから」ではないだろうか。
そうすると見方は逆転する。

「まず最初にこちらが相手の望む何かをする」ことを目的にお話を始める。

有名な家電製品の販売会社は、お客の悩みを聞いて散々に尽くした後に、お客さんが「で今日は何を買って欲しいの?」と言うのは有名なエピソードだが、商売というかコミニケーションの極意は、そういったところに転がっているのだろう。

とはいえ、まず初対面の人にペラペラと、悩みごとを話してくれるはずもなく。
だから最初は「関係作り」から始めなければならない。

「一度、当社のご紹介だけでも」というのは間違った方法ではなかったのである。

 極意は足元に。

秘密はすぐそばにあるらしい。

有限を知る

*[次の世代に]若さの意味。
自分が学生時代の頃を思い出す。
部屋にゴミがや埃が溜まっても、大学の単位が取れなくても、公共料金の督促状が来ても何も恐くなかった。
若いからただ世間を知らなかっただけだが。

若い人はリスクに鈍感というか鷹揚だ。

歳を取ってくると「"そういうこと"が見えていると我慢できなく」なってくる。

若いということはすなわち鈍感であることだろうか。

後から降りかかってくるだろう難儀も、持っている「無限の時間」を使うつもりでボーッとしているのだろう。

そう若者は何より「時間に鈍感」なのではないだろうか。 

 

反対に、歳を重ねると「時間に臆病」になる。

臆病な年寄りは時間をケチケチと使う。

残りが少ないことを知っているからだ。

だから若者がグダグダと時間を使っているのが見ていられない。

いや、羨ましいのだ。

時間に心の底から頓着なく生きられる若者が。

で、それを羨んでかあれこれ言うわけだ。

 

けれど言う。

そんな「時間のチケット制」には早く気づいた方が得をする。

多分50歳を超える頃からマインドが逆転する。

惜しみながら使う時間、は充実したものになるのです。

敗れて得る

*[次の世代に]どちらもok。

落語のマクラではないが、絶対に失敗しない方法はあるのかと言うと、実はある。
それは「端からチャレンジしないこと」である。

黙ってやり過ごす。
それもまた一つの方法だ。


逆に、絶対に成功する方法というのもある。
それは「勝つまで必ずやる」ことだ。

諦めずに続ければ、その先に"必ず何かが開ける"ということを意味している。

例え勝てなくともだ。

ただ一番重要な事は、勝つにしろ負けるにしろ「その後の風景」を想像してみることだろう。

勝つことが自己目的化し、そのうちそれに夢中になっているうちに、やっと買っても実はもう欲しくなくなっていた、と言うのでは笑えない。

また負けて撤退するのもよし、チャレンジして経験が獲得ができたと思えば、本当に勝つまでズルズルとこだわるよりも、よほど自分のためになっているだろう。

つまり「勝てばその先」を、「負けたら別の先」を予め考えておく。

そんな心構えにしておきたいものだ。

危機予測

*[次の世代に]衝動の怖さ。
糖質を制限する上で、特にお酒を飲んでいると「糖分を欲する衝動」が湧いてくることを以前書いた。
そして、ところがその衝動が「自分の頭の中で自問すること」で相当抑えられることがわかった、とも書いた。(うれし気に)

 

ここ2ヶ月くらいはそうした実験に成功していたのだが、なんと先日、その脳への言い聞かせを超えて、思わず巻き寿司類を2パック買って食べてしまった。
かなりの量のワインなどを飲み、かなり酩酊していたことが大きかったと思う。

そうした状態では例の「自分の脳に自問する」と言うことが飛んでしまい、ただ衝動のままにスーパーの惣菜コーナーに走っていたらしい。

翌朝にはそうしてお寿司を食べていたこともうっすらとしか覚えておらず、ゴミ箱に残っているプラスチック製の器を見て「やったな…」といった次第だった。

そして思った。

薬物ってひょっとしてこんな感じか。 

これが巻き寿司だから話はそれまでだが、もし薬物だったらブタ箱に直行と言うこともにもなりかねない。
こうした「自分の判断力の鈍った時」をいかに回避するか。


そろそろアブないかも…と意識しながらトレーニングしなければならないものなのではないだろうか。

まずは飲み過ぎ、を防ぐことだ。

変自

*[次の世代に]自分で変わる。
仕事や段取りができなくて「この人何でできないの?」と思うことがある。
若いころは特に「今それができる=優秀」という図式が頭の中にあったのだと思う。
そういう自分の見る目をまったく疑わなかった。
多分「ちょっと仕事ができる気」でいたのだと思う。
 
上司が部下を問い詰める、そんな感じだ。
上司は鼻息荒く、いい仕事をしているつもりだろうが、言うほど本人の心には響いていないことは想像がつく。
「そこで怒っては負け」なのだ。
やって見せ…はは山本五十六の名言だが(続きにいろいろあります)「ダメで当然」という目で見られたら、自分の世界がずい分変わる。
相手が変わるのではない。
変わるのは自分の世界です。
子供が思った通りに何かをできない時に「どうしてできないの!」と叱る親は多い。
けれど子供は思った通りには動かない。(関心の輪)
それを最初から「できないことが当たり前」と思う目になってみる。(影響の輪)
それも個性と思う。
 
そうすると親が変わり、子が変わる。
今からすぐにできます。
 

変える力

*[次の世代に]今こそ個性。
メンタルを病んで「精神疾患」を抱える人が増えているという。
 その数419万人。(1/6は認知症の人ですが)
今ほど手厚い時代はない、と言う人もいるが、悩む人は増えているようだ。
 
福祉の関係者に聞くと、ほんの少しの躓きで自信をなくし、また世間からはラベリングされて悩んでいる人はとても多いらしい。
働かないことを「よくないこと」という親や周囲の目も依然として強いようだ。
どうもきっかけは、学校での集団生活に馴染めなかったり、成績がよくなかったり、いじめを受けたりということ言うことが多いとも聞く。

 小中学校の義務教育で、もう少し「こぼれ落ちそうな子たち」をフォローできないものかと思う。

一方で、教員の人たちは「カリキュラムの詰め込み」に疲労困憊しているとも聞く。

文部省のカリキュラムのあり方については、もう何十年も議論されているが、根本的には"昭和の旧体制"から変わっていないようだ。

コロナ禍を利用してでも全然違う「新しい学校」は作れないものだろうか。

 

昭和の残滓のような学校の様子を見ていると、理由が分からずついて行けない子供が可哀想に思えてならない。

そんな私立学校などが増えるような行政の方針が必要ではないだろうか。

 

負荷分散

*[健康]内臓インターバル。

胃腸などの消化器に調子の悪いことがあると、毎日何の不都合もなく内臓が働いてくれていることが、どれほどありがたいかと言うことに気づく。
一日たりとてお世話にならない日がない器官だけに、胃や腸に不具合があると、途端に普通に過ごせなくなる。


一日三食から、糖質を抑えて日に一食の生活にしておよそ15年ほどが経つ。
先日歯医者の定期検診で「ずいぶん歯石が少ないですね」と言われ、「日に一食なんですよ」と答えたら「あー頻度が少ないからダメージも少ないんですね」と言われなるほど、と思った。


あくまで仮説だが、歯も内臓も日に何度も食事をしたり、お菓子を食べたりしていては当然それだけ働かねばならない。
それが生きている限りは一生続くことになる。

もし内臓を使う頻度を抑えることが、内臓自身の休息になり長持ちする原因になるのであれば、それはまた新しい内臓との付き合い方なのでは思っている。

一日の3分の2くらいは内臓を休ませて、大事に使うような健康法があっても良いのかではないだろうか。

 

ドカ食いはよくなさそうだけれど、血糖値には注意しましょう。

過去から未来に

*[次の世代に]これから起こること。
自分たちの学生時代は、まだまだ受験戦争の只中で「勉強しない子供を親が叱る」という定番のシーンはどこの家庭でも普通だった。
令和の今に考えてみると、恐るべき同調圧力で自分たちは「成功の必勝パターン」に何とか乗ろうと踠(もが)いていたことを思い出す。
 
去年の今頃から「コロナって…」と噂し始めて丸一年それ一色になるとは想像できなかった。
コロナ禍をまるで戦時下に例える人がいるが、昭和の始めは相当に恐ろしい世相だったのだと思う。
少なくともここ50年で何度も大災害やらテロがあり、その度に自分たちの価値観は揺さぶられてきたと思う。

今回は疫病だから、政治で解決などできずに、今世界中が立ち尽くしているけれど、過去を見てみると「10年に一度くらい」は自分たちの周囲で大きな事件が起きている。

 

ということは、これからもこういった出来事が続くと思った方がいいのだろう。

 自分の価値観が時代に縛られ、固定化しているところに事件が起きて、初めて「そもそもを考えなきゃ」というのでは、これからも後手後手に回ることになると思う。

 

今年はこれから「ゆっくりと大きな不況の波」がやってくると思うけれど、慌てずに対処できることを考えておく必要があるだろう。

妄想力

*[次の世代に]*[7つの習慣]想像の輪。

義務教育でも、そもそも「お金ってなに?」と教わった記憶がないが、
まして「お金はどう使うべきか?」というような話は、社会人になってからも、とんと耳にしなかった。
自分の二十代は「まだまだ欲しい物がある」昭和世代だったから言わずもがな、だったのだと思う。
お金があれば、やりたい事は大体相場が決まっていたのだ。
みんなが「物」を向いていた時代。
「それ」が叶った後のことは考えもしなかった。

 7つの習慣に「影響の輪と関心の輪」というのがあるが、その関心の輪から外れてしまうとイメージができなくなる。

影響の輪や関心の輪が、さらに広がった"そのもう一つ先"にある物を想像しておかないと、いざその時が来ても途端に行き先を見失うものだ。

さしずめ「想像の輪」だ。

そしてさらにその先のことを考えると「終わりを考えることから始める」という話にも繋がる。

人生の終わりまでを想像することは、なかなか難しいけれど「自分の想像する未来の、少しその先」をチラチラと考えてみると、案外自分の「輪」が広がった感じがしないだろうか。

先の視界が開けてきたら、またその先が見えてくる。

次世代の要件

*[ウェブ進化論]異質が主役。

昨年、営業の現場を回ってみて痛感したこと。

それは"異物"、というか「異端児」。

反対に、大企業のエリートから得られた話はほぼなかったと思う。

そう思えば、エコノミストとかシンクタンクの人たちは、果たしてマクロ経済を分析して何のために研究をしているのだろう。

お話はいちいち最もで分かりやすいが、「これからの決断の拠り所」になるような要素は全くない。

「世の中の総論を纏めて話しているようなエリートたち 」はこれからどのような場所で生きていくのだろうか。

 

それに比べて「一匹狼のエンジニア」とか「一つの志で集まった起業家集団」とかは勢いが違う。

まるで「飼育された動物と野生の生き物」くらいの差があると思う。

 

時代が変わったのだろう。

今までの「均質で全体の数字を上げる」ような組織が急速に廃れているようだ。

反対に求められているのは「おかしなこと」を考える個人や集団。

自分のやりたいことを「物語」で語れない人はこれからは苦しそうだ。

 今までの「同調圧力」が急速に「個性の物語」の時代になっていると思う。

 

自分の物語を考えてみてはどうだろうか。