藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

苦労予知

*[ウェブ進化論]*[7つの習慣]終わりも途中も考える。

何か新しい事業を始めるにあたって「まず計画を立てよう」と思い始めたのはここ10年くらいのことだ。(汗)

それまでは何かきっかけがあったら「やってみた」だった。

そしてほとんどが今は消滅している。(大汗)

"コンセプトなき商売"が長続きしない、ということだけは身に沁みてわかった。(嘆)

ただそうして「計画を立てて進める」ということをやってみても、あまり勝率は変わらない。(焦)

どういうことだろうか。(疑)

 

自分の得た結論は「苦労は事前には分からない」ということだ。(苦笑)←(うっとおしいと思うのでもうやめます)

なので計画を立てる時に「資金繰りでこんな苦労があるかもしれないぞ」とか「人を育てることがネックになるだろう」とか「お客を集めるのに塗炭の苦労をするかもしれない」などとリアルに想像する力があれば、あまりの思わぬ展開に狼狽することなく「織り込み済みさ」と身を躱しながら進んでいけるのかもしれない、と思う。

 

一番苦労するのは"行き当たりばったり"だ。

そうなると冷静さも保てないし、対処もお粗末なものになることが多い。

 

そしてこれはビジネスに限った話ではなく。

むしろ日ごろの人間関係にも大いに見られる現象だ。

例えば、同性や異性と付き合い始める時に、終わりまで考えられる人は少ないのではないだろうか。

 

まあそんなことばかり言っていて「何にもしない」ということになってはつまらないのだが。

 

 

肥やしになること

*[ウェブ進化論]失敗を感謝する。

自分たちは日常でよく失敗をするものだ。

そして恥をかいたりもする。

そんなことは日常茶飯事だとも言える。

 

けれど自分たちは子供から成人するにつれて「恥をかくこと」をどんどん嫌うようになる。

「恥をかく」ということから逃避意識は歳を取るほど強くなるのだ。

「知らないこと」を知らないと言えず。

また「失敗したこと」を自分の所作ではない、などと糊塗してしまう大人は実に多い。

「失敗や勘違いを認めること」は思いのほか勇気がいるし、恥をかく。

 

けれど実は「それがやれるかなれないか」で、結局当人の人格とか、人生とかが決まってくるのだということは、年を取ってみると分かるものなのだ。

 

誰もが他人との関わりの中で、普通で、できればカッコよくありたい、というのは自然な気持ちだ。

けれど失敗の逆境の時にこそ、その人の「人柄」が現れる。

 

要するに「失敗」からは逃げずに認めること。

そして、今後を考える視点を持つこと。

 

結局長い人生の"方向"を決定付けるのは、こうした「失敗への取組み」なのではないかと思う。

 

調子の悪い、不運続きの時にこそ人間性が問われる。

そこで"逃げない肝っ玉"が育ってゆくのではないだろうか。

 

気持ちの構えを

*[ウェブ進化論]ストレスとの対峙。

そもそもストレスとは「外部から刺激を受けたときに生じる緊張状態」のことを言うらしい。

ストレスの発生は現代のような「関わりあう(サプライチェーン)社会」では避けることは難しい。

 

山奥や孤島で隠遁生活でもしない限りは「対人のストレス」は覚悟しなければならないものだ。

然るにこの「外部からの緊張とどう向き合うのか?」という問題は自分たちの日常の過ごし方に大きな影響を与えるだろう。

 

外部からの刺激に対して「何でも抗う」とか、あるいは何でも受け入れて我慢する、とかいうのでは身が持たない。

ここで重要なのは、またしても7つの習慣の「影響のわと関心の輪」の考え方だと思う。

 

外部からの刺激による「そのストレス」は果たして自分の力で改善できるものなのか。(影響の輪)

それとも天災のように、まずは受け入れるしかないものなのか。(関心の輪)

そして、

ならば受け入れた後の自分の心のポジションはどのように保てばいいのか。

 

日々の予想できない出来事と、それに伴うストレスは大変なものだが、その時々に「御せるものと御せないもの」に分けて考えてみたい。

 

さらに運動するとストレスが改善される、などともいうからいろんな取り組みの方法がありそうだ。

姿勢が悪いとストレスが溜まりやすい、という研究もある。

 

いろんな方法がありそうだ。

一方通行

*[ウェブ進化論]若さの惹起。

電車なので若い人の「真っ黒い髪の色」を見ていると、「無条件に若さの活力」と「若さの儚さ」を感じてしまう。

いよいよほんまの老境が訪れようとしている。

まだあどけない中高生などを見ていると、もちろんその成長するしかないパワーに羨みを感じ、同時に彼らや彼女らがこれから生きていくにつれての「苦労やら驚きやら挫折やら」を思うと、ちょっと同情してしまう自分がいる。

大きなお世話ですが。

 

もちろんこれから楽し嬉しいこともたくさんあると思う。

何か"若い純粋な精神"が、これからの色んな経験で鍛えられたり、汚れたりシワができたり傷付いたりするんだなぁ…大変だろうけどがんばってね…というような気持ちである。

純粋に若さが羨ましく、哀れでもある。

 

自分も少年の頃は、還暦くらいの大人たちにそんな風に思われていたのだろう。

一方で若い彼ら彼女らは、向かいに座るおっさん(自分)に対して「偉い年になってるなぁ。ああはなりたくねぇな」とは多分思っていないだろう。

 

若者には老人は多分「自分とは別物」に見えていたように思う。

若い人は「どんな老人になるのか」を少し想像してみてもいいのではないだろうか。

いずれそうなるから。

内臓のために

*[ウェブ進化論]血糖値あれこれ。

友人の医師に聞くと、炭水化物を摂っても食べた直後にウォーキングすると血糖値の上昇が相当抑えられるのだという。

おにぎりやラーメンを食べても、その後5-6千歩歩くと血糖値の上げ幅は半分くらいになるという話だった。

血糖値をあげないには「糖質を摂らない」のが大原則だが、それでは人生に味がない。(嘆)

蕎麦や寿司が食えなくて、何か日本人は寂しさを感じる。

 

そこで最近は2週間に一度、「カブツデー」にして立ち食い寿司などに立ち寄ることにしている。

自分の経験では食後に早足で8千〜1万歩くらい歩けば、その後の「空腹モード」に入らずにそのまま普通に過ごせる。

まるで「なかったことに」というやつだ。

 

これがモラルハザードになってどんどんカブツデーが増えないことに気を付けよう。

 

また別の話だが、一日三食食べていることと、さらには糖質を摂取すると「相当に内臓に負担がかかっている」ことを実感する。

 

相当なスピードで糖質を摂り、胃腸で一気に消化・吸収するというのは、思いのほか体に無理をさせているのではないだろうか。

 

 

成功の原理(2)

*[ウェブ進化論]向こう傷、上等。

成功した人の話をポイントだけ聞いていると「こんなことを考えて、サービスを始めて、でも規制があって試行錯誤してそれを乗り越えて…」というようなストーリーよく耳にする。

何となく「一直線に成功に向かっていったんだろうな」と思ってしまいがちだが「その一本道」に絞る前には、恐らくその何倍ものチャレンジと失敗があってのことだろう。

 

必死に別の道を探したり工夫をしていて、ある日ふと、気がついたことを試してみる。

すると「その先」が開けたりする。

そういうことを繰り返していると、全体が何となくある方向に向かっていることにも気づく。

そうして成功した人はこれまで「無数の試行錯誤」、つまり失敗をしてきているから否応なしに経験値が高くなっている。

 

そんな風に七転びしながらやって来た道を、ある日ふと振り返るとまるで"一本の道"のように感じるのだと思う。

一方、出発点からの景色を眺めてみると「よくまぁあんな高みに上り詰めたものだ」としか思えなかったりするが、まあ山登りのようなものなのだ。

 

後ろ傷ではなく、向こう傷を受けながら経験値を溜めて、さらにもう一歩だけ。

 

そう考えれば世の中を変えるような大成功はともかく、ミニ成功くらいなら地道にやれば何とかなるのかな、とも思う。

 

 

 

成功の原理(1)

*[ウェブ進化論]運は運ではない。

成功する人は運が強い、という。

ところが多くの成功した人に聞くと「偶然」「たまたま」という回答が多いらしい。

どういうことだろうか。

 

突然降って湧いたような幸運があって…という人はあまり見当たらない。

というかむしろ「一心不乱に熱中していた人」というような共通点が窺える。

映画のようなドラマチックな(ドラマとはギリシア語で劇のことらしい)何かが突然に起きるのではないようだ。

 

世の中をフラットに見てみると多少の偏りはあっても「いろんなことが、割合均等にバラけて起きている」と考えていいだろう。

 

つまり成功した人は「チャレンジする回数が多い」とか「我欲だけにとらわれない」とか「ダメそうでも手を抜かない」とか「ずっと考え続ける」というようなことを継続してできている人のようだ。

 

そうした日常を送っている人が、ついには大きなチャンスをものにすると「なんて運のいい人だ」と周囲は言うけれどさにあらず。

つまり成功する人は、成功するべくして結果を出した人であって「ただラッキーだった人」なんていない、というのが真相のようだ。

 

成功がただの運頼みではない、のだとしたら自分たちの「日常の振る舞い」が結果に直結しているのだとも言えるだろう。

 

日頃の行いが、自分たちに何かを起こすのに違いない。

(つづく)

 

 

 

 

 

直球の時代

*[ウェブ進化論]とりあえずのない時代。

とりあえず大学に行く、とかとりあえず就職する、ということがまあ当たり前だった時代がある。

さらには「とりあえず結婚する」とか「とりあえず家庭を持つ」とか。

そしてその"とりあえず"がずっと続いて定年を迎えた、というのが昭和のモデルだった。

 

いまは昔。

これからは「とりあえず」ではなくなっている。

まっしぐらに「何か」へ向かうのが当たり前になるのだろう。

ただ「いたずらに海外を放浪する」というのではなく、海外にいながら「何かを探す」ということがスタイルになりそうだ。

 

何も考えずにただ身体を動かす、というのでは時代のスピードが早すぎてあっという間に時間が経ってしまう。

これまでのような「ただ働く」という行為がなくなり、働くにしても奉仕するにしても「意味のあること」を自分たちは探すようになるのに違いない。

 

お金を稼ぐのかかどうかとか、という指標が薄れて「自分にとって意味のあることかどうか」ということが行動の動機になるのだろう。

 

若い人たちにもぜひ「働くことの理由」を考えてから行動してもらいたい。

「意味の分からない仕事で稼ぐこと」が当たり前でなくなる時代になっている。

 

さて「何のために自分の時間を使うのか」を改めて考えてもらいたい。

まったく新しいこれから

*[ウェブ進化論]過去にはないことを想う。

賢者は歴史に学ぶ、というがその学び方にもいろいろありそうだ。

この2冊を何度か読むうちに、自分たちは「ほんの五千年の自分たち」の歴史だということがイメージできるようになった。

やはり「抽象化と本筋の理解」というのは実に重要なことだと思う。

今の自分たちと変わらぬ新人類たちが出てきてまだ4万年。

そして文字を操り、鉄器を作ったりするのはここ5000年のことだという。

さらに銃を発明して争いが激化したのはここ7-800年。

 

そうしてみるとまだここ数百年の領土争いとか、先進国の侵略とかいうのは「ほんの最近の出来事」であり、まだこれからどうなるのかについても未知な領域であることに気づく。

 

自分たちは「実に長い歴史の上にいる」と思いながら、実は「ごく最近」の出来事に接しているにすぎないのだ。

だから「歴史に学ぶ」と言ってもその歴史がそれほど長くない。

欧州や中国や、ましてやアメリカ大陸の歴史はほんの「最近にあった出来事」だ。

 

歴史に学ぶというのは重要な知見だが、もっとフランクに「これからを予想する」というのが大事な発送ではないだろうか。

 

これまでにはない、全く新しいことが起きるような気がする。

頂点と底(2)

*[ウェブ進化論]投稿の呪縛よりも。

昨年あたりまでは、子供たちのなりたい職業の一位はユーチューバーだった。

自分の知り合いにも動画投稿の世界に飛び込んで、一時はかなり稼いでいた人もいる。

ところが「2年経っても続いている人」というのは案外少ない。

「動画が再生されないとお金にならない」というシンプルな仕組みだから、「再生される動画を撮りつづける」ということが目的になってしまって、生活パターンが変わってしまった人もいる。

「自分が発信したいことだけを届ける」というはずの趣旨が「再生ありき」とか「新作ありき」とか「編集ありき」になり、まるで「作家でもないのに〆切に追われる人」のように見える。

 

テレビなどの固定メディアとは違い「自分と知識や好みを仲間で共有できる」という本来の強みを考えて"コンテンツありき"を中心に据えておかないとミイラ取りのようなことになってしまうだろう。

つまりどんなに偏っていても(あるいは平凡でも)「共感(あるいは反発)できる」ようなメッセージ性があれば、それが興味のある人に届く時代だ。

 

だから「誰も知らない、新しい話題や知識を提供し続けること」を目指すのではなく、まるで友達に語りかけるような「優しい共感コンテンツ」が長く続くコツなのではないかと思う。

 

作為的な仕掛けは長続きしないものなのだ。

頂点と底(1)

*[ウェブ進化論]マイナスはそのままではない。

よく不動産投資などでは「ゼロからの出発」ではなく「マイナスからの出発」という表現が使われる。

つまりなんだか難のある物件を購入してしまい、買った時点で既に何割か損をしているような状態のことを言う。

さらにはとんでもない危ない物件をつかんでしまった時とか。

 

ところで不動産投資だけでなく、生きていると「あぁ相当なマイナスになってしまったな」と思うことがある。

自分にはとても多かった。

そして今もそんな感じだ。(汗)

 

普通に順調にやれている風な周囲を見ていると、何か自分の立場が途端に弱々しく、不安な気持ちになる。

ところがだ。

それでもう少し時間をおいて考えてみると景色はずい分と変わるものだ。

案外、その落ち込んだ状況は次への契機になったり、またそれがきっかけで反作用が働いて、明るい先が開けてきたりしていることに気づく。

 

悩んで耐えて、葛藤していた先は案外明るい。

落ち込んだ時こそ「ひょっとしてこれって何かの吉兆じゃないのか?」と、ある意味無責任に思ってみるこは決して悪くないと思う。

 

そしてそして、良いことがあって有頂天の時にこそ「ちょっと浮かれすぎてやしないか?」とどこかでバランスを取っておいた方がいいと思う。

 

自分の経験上だが、慢心は必ずその後の失敗につながるものだ。

 

メンタルの段階

*[ウェブ進化論]自分のアップデート。

コンピューターはもうずい分前から「リリースされてからもアップデートが続く」ということが常識になってしまった。

その昔はというと「一旦正式に購入した製品を後から修正するとは何事か」と自分たちも思っていた。

 

いわゆるハードウェアの感覚でいたのだ。

それがバグだらけでリリースされてまさに「泥縄式」に修正されたり、また便利な機能拡張があったりと、いつの間にか「完全な完成品を購入する」という感覚は無くなってしまった。

ソフトウェアの魔性と言っていいだろう。

(今の若い人にはそんな感覚すらないと思う)

それはともかく。

 

自分たちの体は生誕期から成長期、そして緩やかに老いていく。

身体というハードだけ見ても、段階とともに必要なメンテナンスが増えていく。

運動を心がけましょうとか、健康のための習慣とか。

 

そして精神面は幼児期からどんどんと、まるでソフトのバージョンアップのように変化していくものだ。

身体のケアと同様、自分のメンタルについても「今の状態とこれから」に注目してメンテナンスする必要があるのではないだろうか。

「学校で学ぶ」とか「就職する」とか「恋愛する」とか「家族を持つ(あるいは持たない)」とか。

 

ただ社会の仕組みの流れにいるだけでは文字通り「流されている」状態でしかない。

そして突然起こるいろんな出来事に、いちいち驚いて狼狽していては後手に回ってしまうばかりである。

 

そろそろ働き盛りだ、とかそろそろリタイヤ世代だ、とかいよいよ老後だ、などと自分のメンタルを切り替えていくことが必要ではないだろうか。

 

思考の翻意

*[ウェブ進化論]チャンスは倍増する

成功者は、運が強い、とよく言う。

しかし一方、「チャンスの機会は誰にも等しく訪れる」とも言う。

よくあるこのテの設問、もちろん正解は「その人による」だ。

 

ここ数年、特にこの「その〇〇による」という回答が流行っている。

それはなぜかというと時代がVUCAだからだ。

なのでこの回答はとても正しい。

今の時代にはうってつけの考え方だろう。

 

チャンスは誰にも"均等"ではないかもしれないが、バラバラと「ランダムに撒かれている」というのは理解に難くない。

世の中というのは、いや自然界というのはそんなものだろうと想像できる。

けれど偶然とも思える出来事の中に「何かの意味」を感じられるかどうか。

「これは何かの啓示かもしれない」と思うかどうかは、案外自分次第である。

 こういうことは考え方次第であり、またそれはそういう能力とも言えるだろう。

 

禍事(災難)が起きたときに、それにただ怒り、嘆き、感情のままに時を過ごすのと、「直ちにその事の原因と、これからの見通しと、そしてこれからを好転させる施策を考える」のとでは、結果は天と地ほどに違うだろう。

 

誰しも災難が起きれば驚き、悲しみ、自分だけの不幸を嘆く。

人間とはそういうものだと思う。

けれど、そんな災難もチャンスも、いろんな姿をして自分たちの周りに降ってきているのだ。

 

いろんなマイナスをプラスに転換できれば、チャンスは倍に増える、と言えるのではないだろうか。

一世紀をかけて

*[ウェブ進化論]紙との戦い。

紙の手帳やメモを止めるとか、カレンダーを吊さないとか。

もう頭の中以外は「すべてデジタルツール」に置き替わりそうな気配がするけれど、自分たちの頭の中は相変わらずアナログだ。

どうも電気信号で動いているらしいが。

それはともかく。

 

なかなか日頃の習慣は一気には変わらないものだが、最近はいよいよ「紙へのメモする」機会がなくなってきた。

情報セキュリティの考え方にCIAというのがあるのだが、このAの部分(可用性:いつでも必ず使える)というところがこれまでのデジタルツールのネックだったと思う。

昔はデータを保存する媒体がフロッピーとかHDとかで「世代を跨げない」ことも多かったし、USBとかDVDも長い時間をかけて散逸してしまうことも多い。

 

一方紙媒体、それも「糸綴じノート」というのはある意味最強で、散逸も消失もしない。

一方紙は紙でも、カードや紙メモは何十年もかけていつの間にか何処かへ行ってしまうものだ。

なので「スクラップ帳」を考えた人は偉大である。

「情報を固定して散らさない」ということを徹底し、切ったり貼ったりという手間を超えて存在している。

 

自分は最近は「音声メモ入力+スマホやPCで共有・加工」が日常になっている。

入力はどこからでもできて、クリップボードや画像まですべて共有してくれるので「一旦クラウド」へ上げるよりも効率が良いのだ。

 

さてスクラップ帳がなくなる日はまだ先だろうか。

 

大前提(3)

*[ウェブ進化論]新しい関係。

少子化が本当に憂うべきことなのかどうか」ということは、これからが主役の若者を中心に考えてもらい、将来の国造りについて自由に議論してもらうような舞台設定こそが急ぎ必要なのだ。

で、おじさん、おじいさんたちは議論の主役から早々に撤退してもらいた。

それはともかく。

 

戦中の「産めよ殖やせよ」というスローガンはそうやって聞いてみると実に怖い響きを含んでいる。(子供を五人以上産むように、とのことだった)

 

自分は「家族を持つこと」の判断というのは、実に自然でもあり、けれど今の時代には悩ましい決断だと思っている。

どちらにも正解はないし、またどちらかの道を後戻りして検証することも叶わない。

最近よく「結婚や、子供を産むメリットとデメリット」という話を目にするが、そういう現代の合理性の話でもないと思う。

 

パートナーとか、家族とか親子とか。

そういう関係の意味が実は変わってきているのではないだろうか。

 

昭和の同調圧力の流れは未だ強く「家庭を持って、子供を作って親の世話をして」という空気は強く「それ以外の選択肢」についてはあまり語られていない。

そして"結婚とか子育てとか介護の失敗例"についても、あまり取り上げられていないと思う。

 

「"ニュートラルな選択肢を考える機会"を若者に提供する」ということだけが、大人世代の役割なのではないだろうか。

 

大人は選択の是非については黙っているべきだろう。